【平成18年4月17日 産経新聞記事】
西安事件(1936年12月)の主役として中国現代史に名を残した張学良が中国統一をめざす北伐(1926-1928)当時の27年7月、まだ敵対関係
にあった蒋介石率いる中国国民党に対し、ひそかに忠誠を誓い、入党していたことが判明した。このほど米スタンフォード大学で公開された蒋介石日記から明ら
かになった。張学良には、同事件の直前に中国共産党への寝返りを図った疑惑も最近の研究で浮上するなど、その政治的な節操のあり方をめぐり「英雄」という
人物像が書き改められる可能性も出てきた。
張学良が国民党政権(国民政府)への合流を公然と示したのは、奉天軍閥の巨頭だった父、張作霖が爆殺されたのと同じ1928年(昭和3年)の12 月だった。生前の証言で、張学良は合流直前に国民政府と連絡があったことは認めていたが、今回の記述はこれより1年5ヶ月前の時点で中国統一の布石が打た れていたことを示した。
問題の記述は、北伐が一時停滞していた1927年7月20日に南京で書かれた。「易寅村、彭君が来訪、武漢、北京よりの忠誠伝達について話す。武漢の共産党はまもなく崩壊する。張学良も忠誠を伝達し、入党してきた」
仲介役とみられる易寅村とは、のちに故宮博物院長を務めた易培基(寅村は字)のことで、軍閥の迫害を避けて北京から上海に逃れていた。「入党」 が、党内手続きを経て承認を得たのかは説明ができない。当時、張学良は父の配下で北伐軍の北上阻止に当たっていた。この時点での国民党内通は、張作霖ら軍 閥勢力にとり、重大な離反行為を意味する。
張学良は、中国統一後の1935-36年、東北軍を率いて西安を拠点に共産党の軍事掃蕩を指揮したが、この中で今度は共産党に入党を求めた疑惑も出ている。
これは、共産党中央文献研究室室務委員を務めた高文謙氏が、米コロンビア大学で2004年2月に述べた。高氏は、1935年末に少し陜西省にあっ た共産党中央がモスクワのコミンテルンに対し、張学良の入党申請を報告して、その可否の判断を求めた電文を見たと発表した。高氏はモスクワが却下したと述 べたが、共産党が独断で入党させたとの異説もある。
張学良は1936年、督戦のため西安を訪れた蒋介石を拘束し、抗日救国に向けた挙党体制を要求。この西安井事件を経て第二次国共合作が実現したものの、張学良は中国大陸と台湾で半世紀あまり軟禁され、2001年10月にハワイで死去した。
蒋介石の日記は、遺族から原本を寄託されたスタンフォード大学が、1931年分までを公開した。
【平成18年4月17日 産経新聞記事 蒋介石日記-1-】
東三省(満州)の冬空に国民政府の国旗である晴天白日満地紅旗がいっせいに掲げられたのは、1928年(昭和3年)12月19日だった。いわゆる「易幟」(旗印を改める)の断行である。
張学良が統一中合への合流を公然としたこの日、蒋介石は日記に「中国はついに統一を告げた」と簡潔に記しただけだ。北伐を経た統一の完成を内外、 とりわけ在満権益を握る日本に見せ付けるために格好の演出だったはずであり、事実、張学良も、生前のインタビューで国旗の量産に気づかなかった日本の情報 収集を「実にお粗末」と酷評しているほどだ。
だが、版図の広がりと国民政府の内情を見比べて、蒋介石は憂色に包まれていたらしい。「今年もあと1日を残すばかりだ」。翌三十日の日記で、蒋介 石はこの年5月に山東出兵した日本軍との間に起きた済南事件の「国恥」を悔いたうえ、「軍人の思想不統一」「共産党の策動」「国家分裂の懸念」「農民の困 窮」「党内の不統一と党員の幼稚、不見識」を書き連ね、「前途の危うさを警戒せざるを得ない」と嘆息している。
軍閥を排除して国内をほぼ統一した以上、蒋介石が取り組むべき課題は、関税自主権の回復と治外法権の撤退要求を柱とする民族主義的な外交だった。 また、革命政党の正統な指導者であるためには、孫文の描いた青写真の通り、「訓政」と呼ばれる国内政治の枠組みも仕上げを急ぐ必要があった。
蒋介石の抱いた危惧は、年明けから約三年の間に的中を重ねた。汪兆銘ら党内左派の実力者と衝突、閻錫山ら反蒋派軍人との壮絶な内戦(1930年の 中原会戦)、そして1931年11月に「中華ソビエト共和国臨時中央政府」(江西省瑞金)の成立に至る中国共産党の武装抵抗である。
1931年(昭和6年)の「九・一事件」、すなわち満州事変が起きた翌日の日記で、蒋介石は危惧の的中を再び悔いている。
《昨夜、倭寇(日本の侵略軍)は故なくわが瀋陽の兵工廠を攻撃し、兵営を占領した。(中略)広東でも反逆(胡漢民氏ら「広州非常会議」の反蒋活動) に準じて内部分裂を図り、東省(満州)の侵略の狙ったのだ。内乱はやまず、反逆者に後悔の心なく、国民に愛国心はない。社会に組織なく、政府は不健全。か かる民族は理論的にきょうの世界に存在し得ない。》(1931年9月19日)
武力によって日本を排除する力がないと判断した蒋介石が、国政連盟への提訴でこの難局を乗り切ろうとしたことはすでに知られている。9月21日に南 昌から南京に戻った蒋介石は、「幹部を集め、日本の東省占領をまず国際連盟と不戦条約加盟国に訴え、公理による戦勝をめざすよう訴えた」と記している。
欧米列強を引き込むことで日本を抑えるこの策略は、最終的にリットン調査団の派遣をみるものの、蒋介石が外交協議の成り行きに一喜一憂する結果となった。
「国民外交の名で各国、日本の国民と連絡し、公道を求めたい」(10月4日)とあまり現実的でない方法を考えたかと思えば、「この対日問題は戦闘の勝負ではなく、民族精神の衰退と国家人格の存亡にある」(10月7日)と悲壮な決意をもらしたりしている。
南京の中央党部(国民党本部)や考試院(人事院)には、共産党に扇動された学生デモが連日押しかけた、国民政府を軟弱として非難したことが日記に 描かれている。高まるナショナリズムを背景に、蒋介石の「安内攘外」(国内安定優先策)を突き崩し、日中対立を先鋭化させる動きは、のちの西安事件に通じ る複線となってゆく。
<蒋介石年表>
1887年 浙江省奉化県溪口鎮で出生
1907年 軍人を志望して日本留学
1911年 辛亥革命に呼応して帰国。革命軍人となる。
1924年 黄埔軍官学校(広州)校長に就任
1926年 国民革命軍総司令となり、北伐開始
1927年 宋美齢と結婚
1928年 北伐終了。国民政府主席に就任
1936年 西安事件
1937年 日中戦争の開始。重慶遷都。
1943年 カイロ会談
1945年 日中戦争終結を受け、重慶で「以徳報怨」演説。毛沢東と国共首脳会談
1946年 国共内戦。南京の国民大会で憲法制定
1947年 台湾で2・28事件発生
1948年 総統に就任
1949年 中華人民共和国成立。国民政府は台北に移転
1958年 ダレス米国務長官と会談、「大陸反攻」を実質放棄
1971年 国連脱退を声明
1972年 健康不安が強まり、蒋経国の後継準備進む
1975年 台北に死去
(記者の書評)
米スタンフォード大学で公開された蒋介石の日記は、遺族からの自筆原本を寄託された同大学が、マイクロフィルム化した一次史料だ。原文の公開はこれが初めてだけに、中国と台湾に強権政治を敷いた支配者の素顔に光が当てられることが期待される。
蒋介石の「日記」は、生前を含め一部が中国国民党を通じて研究者らに提供されてきた。昭和49年から本誌(産経新聞)に連載された「蒋介石秘録」も、単行本第一巻の「資料・引用文献」が示すようにこうした提供資料に依拠している。
これらの資料では、私生活に関する部分が削除されたり、加筆されたらしい記述もあった。総統を務めた蒋介石の権威や正当性への配慮であり、今回の公表分にも遺族の希望による墨塗り部分がなお一部ある。
しかし、「日記」の筆写記録(1919年から欠落を含み34年ごろまで)を保管している中国・南京の公文書館が、政治的な影響を懸念してか「非公開措置」(中国側の研究者)をとっていることなどを考えれば、日記原本の価値や公開の意義は説明を要さない。
寄託された日記は、1917年から死去三年前の1972年まで。このうち17年分は幼児期からの回想文であり、厳密には日記と呼べない。早期のものは水ぬれなど汚損が激しいうえ、国民革命が本格化した1924年の資料は散逸している。
今回の公表は、満州事変の起きた1931年(昭和6年)まで。同大学では、台湾側から派遣された歴史専門家の協力でなおマイクロフィルム化を進めており、日中戦争や国共内戦、戦後の台湾統治にかかわる部分は、こんご段階的に公表される。
大学側では、同時に昨年寄託された息子、蒋経国の日記も、遺族の同意が得られれば公表した意向という。
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