【平成18年4月21日 産経新聞記事 -5-】
中国共産党が江に氏省瑞金に築いた革命根拠地「中華ソビエト共和国臨時中央政府」は、産地が入り組む複雑な地形と毛沢東のゲリラ戦術で、相当にあたる国民党軍を悩ませた。
蒋介石がのちの1933(昭和8)年に始めた掃討作戦は、トーチかを連ね根拠地を包囲する長期戦だった。共産党は1934年10月、紅軍(共産党軍)主力による包囲突破で瑞金を離脱し、陜西省北部まで1万2千キロの道に踏み出した。長征である。
この史実をめぐり、ノンフィクション作家のユン・チアンは毛沢東を描いた近著「マオ」(邦訳・講談社)で、蒋介石の陰謀説を唱える。留学先のソ連 で人質となった最愛の長男、蒋経国を帰国させる交渉カードとして、兵力をそいだ紅軍を西北の陜西省に囲い込む策略という筋書きだ。
興味深い説だが、公開された1931年分までの日記は、むしろ蒋経国に異常なほど冷たい。息子を見殺しにする覚悟が随所に出てくるのだ。
まず、1928年(昭和3年)12月9日。日記の「社会記事」欄に、蒋経国がソ連共産との留置措置に遭ったとする新聞報道からの抜書きがあり、蒋介石は「吾心泰」(自分は気に留めない)とコメントしている。続く日記の本文はこうだ。
《亡き母の孫を愛した切なる心に対すべくもない。(中略)ただ自分は、自らの志を実行することで母に報いるのみだ。国民はすべてわが子に等しい。どうして自分の肉親だけを欲する必要があるだろうか》
蒋介石はこの年までに、ソ連顧問団の排除(1926年)、上海での共産分子粛清(1927年)と、北伐による国家統一と平行して、反共姿勢を強め てきた。前段では亡母、王采玉への不孝をわびつつも、息子と引き換えに建国の大計をゆがめることはできない、というのが全体の趣旨だ。
年譜の上で、帰国を求めた蒋経国の抑留が明らかになるのは、1930年以降のことだ。1931年12月16日には、こんな記述が登場する。
《孫夫人(孫文夫人の宋慶齢)がソ連共産党極東部長の釈放を求めてきた。(中略)釈放に応じて経国との交換を図るよりも、自分はむしろ経国が戻らないか、あるいはソ連で殺されてしまっても国を害する罪を被らないことを願う》
ソ連のスパイ容疑者の釈放要求については、「マオ」も触れている。ユン・チアンは別の書簡を引用して、宋慶齢を「ソ連のスパイ」と描いているが、日記だけでは無論、断言できない。
ただ、宋慶齢は上海でも共産分子粛清で蒋介石を強く非難していた。蒋の側も、1927年9月1日の日記で、宋慶齢の訪ソを新聞で読んだとして「女性の直情径行は嘆かわしい」と義理の姉に不快感をみせている。
蒋経国に話しを戻すと、宋慶齢が話を持ち込んできた1931年12月末には、蒋介石も悩んだあとがみえる。「経国がソ連で殺されなければ、自分が今生で会えなくても帰る日があろう」(27日) 「国に忠、親に孝、子に慈、家に道。どれも尽くせない」(31日)
蒋経国は第二次国共合作の流れができた1937年(昭和12年)4月に帰国する。この日記の範囲でも追えるのは蒋介石の心情だが、気にかけているのはまず亡母であり、蒋経国本人への愛情は読み取れない。
この感情の流れは、蒋経国の少年時代から日記にはっきり表れている。蒋介石が「緯児」と呼んで溺愛したのは、二男の「緯国」だった。経国は「血を分けた
ただ一人の息子」に違いないが、その生母は関係が冷え切って分かれた最初の夫人、毛福梅であり、「血」が「愛」よりも「憎」に働いた可能性がうかがえる。
複数の妻や愛人を抱え、実際に血をわけた息子が戦死しても顔色を変えなかったのは、蒋介石のライバル、毛沢東だった。妻(賀子珍)を外国(ソ連) に送り出し、その後に新しい妻(江青)を迎えたやり方も大筋では近い。近代中国の領有は、権威政治のスタイルから私生活まで、あまりに多くの共通点を抱え ている。
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