【平成18年4月22日 産経新聞記事 -6:最終回―】
済南事件(1928年)を機に「滅倭(日本を滅ぼす)」と憎悪をたぎらせた蒋介石だが、日記では、1918年(大正7年)の夏に初めて日本人への怒りをぶつけている。
広東軍総司令部作戦かに勤務した30歳のころ。香港で投宿した日経旅館「松原別館」の従業員に粗相があったらしい。「館僕(ボーイ)たる日人の軽侮を受ける。憤懣やるかたなし」(8月11日)とうのが怒りの始まりで、三日後に怒りは頂点に達する。
《東倭(日本の蔑称)の侮辱に切歯扼腕の思いだ。(中略)これがどうして教育ある国民といえようか。髪の逆立つ思いであり、殺してしなえないのが情けない》(8月14日)
激高すると言葉に歯止めがきかない性格だったようだ。もっとも、蒋介石の怒りは同胞にも容赦なく向けられており、この齢にはパトロンだった上海の大富豪、張静江の屋敷前で人力車の車夫を殴り飛ばしたことが、翌年の日記(1919年10月2日)に出てくる。
これなどは他愛も無いエピソードだが、日本への攻撃的な言辞だけを拾い集めて蒋介石の反日的な性格を強調するのは浅薄に過ぎる。雪深い新潟県高田の兵営
で身につけた冷水での洗顔を終生の習慣としたように、軍紀の緩んだ軍閥時代の性格が一向に改まらない改造するする範を、対立を深める日本に求めた心情が、
1930年(昭和5年)の日記につづられている。
《日本の軍隊は忠告愛国を中心とする。それゆえに他国をしのぐ奮闘をみせるのだ。わが国の軍隊をどうすれば日本軍のような忠党愛国にできるのだろうか》(10月20日)
済南事件この方、日記の中で蒋介石は日本軍を「倭軍」「倭寇」と蔑称で呼んでいる。それだけに、「日本軍」という表現を交えたこの日の評価はいかにも唐突であり、蒋の日本に対する思いが決して単純ではなかったことがうかがえる。
日本に対する蒋介石の強い関心がにじむのは、この記述より早い1927年(昭和2年)秋の訪日だ。昭和に元号の改まった直後の訪日は、9月末から約40日という長期に及び、蒋は満蒙への積極介入策を打ち出した田中義一首相ら政財界、軍の関係者と会談を重ねた。
日本滞在中の日記には、こうした会談の成果は簡単にしか触れられていない。むしろ蒋介石の興味は、明治、大正の時代から変貌を遂げた昭和初年の日本社会への観察に向けられていたようだ。
長崎に到着した上海丸の船上で、蒋介石は船長らの挨拶を受け、「その態度風格が十余年前卑屈からきれいに欧風化した」(9月29日)とまず驚嘆している。
続いて神戸に向かう社中では、車窓からみる山陽路の片田舎にまで電灯がともっていることに目を向け、「水力発電の発達と経済の発展には目を見張るものがある」(10月2日)と記した。
上海の輝く夜景を見慣れた蒋介石だが、租界をわずか離れれば深い闇が村々を襲う中国の現実も熟知している。蒋が驚いたのは、むろん電灯に象徴される経済と文化の恩恵が地方の庶民にまで行き渡った昭和の風景だった。
《社会の秩序と教育がみな以前よりも進んでいる。物質は進歩しても精神は退廃していると思っていたが、日本の盛隆がとどまってはいないことが分かった》(10月4日)
あるいは、1929年(昭和4年)10月のニューヨーク株暴落に始まる昭和恐慌に日本を訪れていれば、蒋介石は「国力の充実」と「国民レベルの向上」をここまで評価できなかったかもしれない。
済南事件から満州事変へと続く蒋介石の日本観はこれまでみてきた。続く第一次上海事変(1932年)や満州国建国(同年3月)、そして日中戦争の開戦
(1937年)を経て、蒋の日本観が、すでに知られている公式発言のほかにどんな陰影をみせたかは、次回以降の日記の公開を待つことになる。
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