振り返ります。大人とは、他の人に良い影響を与える存在。そして、利他つまり、一体感を出せる人でした。言葉は「仁」。仁とは「二人の人」と書く文字でした。
日本は、皇室で成り立っている国です。その皇室と国民が一体感をもてることが、日本の国体です。戦後それがなくなってしまいました。ですから、日本人は、日本国民であることに誇りを持っていません。なくなったというか、外国の考え方に国民が同調して、本来の自分達の姿に蓋をしてしまっているのです。特にマスコミが。それを、外交の道具に使われても平気な国民。悲しいことですね。いくら米国の横暴とはいえ、戦後のイラクはなぜ、あのような惨状なのでしょうか? 戦後の日本はなぜ、復興が早かったのでしょうか? それは、皇室と共にある国の一体感があったからです。これほどに素晴らしい国であることを忘れてしまっています。
教育勅語にある、爾臣民(なんじしんみん)という言葉に示された明治天皇の深い思いが伝わってきます。いつまでもこれを忘れてはならないんですよね。
三つ目の「至善に止まる」です。
人間の悩みはどこからくるか。これは釈迦もおっしゃっています。「他との比較」から苦しみ悩むのです。そして、何と比較するか。すべて自分と。そして、その比較する自分が広がってきます。自分にとって都合がいい。自分の家に都合がいい。自分の会社に都合がいい。自分の国に都合がいい。
健康な自分と比較するから、病気や老いや死を恐怖する。自分の子供と他人の子供を比較するから、親子関係がおかしくなる。人間ってやっかいですね。
相対に対するのが絶対です。私たちの個々の感情に関係なく動いていることがあります。これが「至善」です。著者は書いています。『天には天のルールがある。これを「天道」という。地に地にのルールがある。これを「理」という。これをあわせて「天道地理」、即ち「道理」という。人には人のルールがある。この道理を人間の立場でいうと「「義」である。だから、「道義」というお。さらにこの天地人を貫くルールを「道」とともいいます。そして、この「義」というものが素直に実践されたときに「徳」となるのです。「徳」の原字は「直心」にギョウニンベンを合わせたものです。つまり、この道理・道義を素直に受け入れて実践したときに「徳」となるのであります。
道義は、いつでもどこでも変わらないものです。三千年の昔も今日も変わらない。アメリカでも中国でも日本でも変わらない。』
つまり、これが絶対です。相対は「二」の世界です。「至善」というのは「一」です。だから、「至善に止(とど)まる」ということは、「一に至って止まる」という意味です。「一、止まる」=「正しい」という字になります。
正しいとは、道理・道義にかなっていること。自分に都合がいいからといって必ずしも正しいとはいえないということです。
私たち経営者は利を追います。企業活動を継続させるため当然です。ですから、よく「きれいごとをいっても設けなければ何にもならない。理念では飯を食えない」といわれます。そういう方は、是非、渋澤栄一翁の「論語とソロバン」をお読みください。
なんて、今の苦しい情況で偉そうにいえる私ではないですけど。
この大学の章、とても勉強になりました。最後に孔子の言葉を紹介します。
子曰く、君子は義に喩り、小人は利に喩る
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