では、記事の抜粋。そのまま載せます。
この記事が掲載された日はみどりの日、つまり昭和天皇のお誕生日です。
絶望の淵に追われた日本
過去の人々の息づかい、過去の人々の心の奥を考察しようとするとき、ついつい、現在の価値観を物差しにしてしまい、複眼的に考えることを忘れてしまいがちである。
それが理由であろう。誰もが言いそびれてしまっていることがある。それを記したい。
日本経済建設に取り組んだエコノミストのひとり、金森久雄氏が戦後経済の成長は、なぜであったかを説いて、「第一に人間である」と述べた。
京都大学政治学教授、京極純一氏は、「堅気の生活者が日本を現在の姿につくりあげたのだ」と叙述した。
昭和二十年、二十一年、敗戦後の日本に戻ってみよう。私が以前に記した文章を、そのまま写すのを許していただきたい。
「日本はすべてを失った。息子を失い、夫を失い、兄を失い、親を失い、町という町を失い、住まいから学校、寺院、神社までを失った。
大商船隊を失い、世界最大級の満州と北朝鮮との間の水力発電と世界一となるはずの化学コンピナートを失い、南満州鉄道、台湾の精糖工場を失った。そして、満州、朝鮮、台湾、その他、海外にいた日本人は、その資産のすべてを失い、着の身着のままで日本に戻ってきた。国内の焼け残ったすべての軍需工場、製鉄所、火力発電所、化学工場の大半を失うことになるはずだった。
そして日本人は名誉も失った。瓦礫(がれき)と灰燼(かいじん)のなかで、貧しさと飢えに苦しむ日本人は、世界中から罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられた。恥辱のなかで生きていく日本人は、自信をもつことができず、なにごとにたいしても確信が持てなかった」
こんな具合に私は記した。日本の政治家、企業家、経済専門家のだれもが、日本が昭和初年の生活水準に戻るのは五十年、六十年さきになると想像した。
社会秩序の崩壊防ぐ思い
それでも、日本人は四つの島の中で生きていかなければならなかった。どうあっても日本を再建しなければならず、いつか力を取り戻し、名誉を回復しなければならなかった。
なによりもまず、誰もが天皇を守ろうとした。その願いは社会秩序の叙々なる崩壊を防ぎ、明日にしっかりと立ち向かおうとする心構えと重なっていた。
天皇を守ろうとした人々は、気づく気づかないは別として、独善、猜疑心(さいぎしん)、悪意、流血が連鎖、循環する悲劇を繰り返すまいとしたのである。
そのような悲劇に一度ならず落ち込んだ国は当然ながらある。
ルイ十六世は退位させられ、逮捕され、断頭台にのぼった。フランスはそのあとロベスピエールの恐怖政治となった。
つづいて、ナポレオンが登場し、かれが皇帝となり、そらにルイ十八世、そして共和制、再びルイ・ナポレオンの帝政となった。
ロシアはどうであったか。皇帝ニコライ二世一族を殺害したあとに、レーニンはなにをしたか。
老若を問わず、すべての知識人を殺害するか、国外に追放した。かれの後継者のスターリンは、マルクス主義に献身と情熱をささげてきたあらかたの知識人を抹殺してしまった。
ドイツはどうであったか。ウィルヘルム二世は、ドイツを離れざるをえなくなり、オランダに亡命し、ドイツ皇帝はドイツから消滅した。
十四年のあとにヒトラー政権の登場となった。
国民と共に歩まれた歳月
京極氏が「堅気の生活者」と呼んだ人びと、金森氏が「第一に人間である」と言ったその人びとが、天皇を守ろうとした。
そのために努力した人びとがいたし、自分の命を犠牲にした人もいた。前に、この欄で記した、近衛文麿はそのひとりである。
だれもが天皇を守り、守り通すことによって自己分裂をしての葛藤、相克が起きるのを予防し国民のあいだの団結の共感をはぐくみ、それを明日のための力としようとした。
そして、天皇は国民のその願いに応えた。天皇は国民に新たな自信を与え、新しい国家統一の心柱(しんばしら)となり、あの敗戦からの立ち直りのための忍苦と希望を求めての歳月を、国民と共に歩まれたのである。
きょう四月二十九日は、昭和天皇ご誕生から百五年にあたる。
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