第十二代景行天皇の三男、日本武尊は、武将としては卓越した能力を有していました。それがゆえに景行天皇からうとんじられ、あちらこちらの部族を平定させられに行かされます。
南九州に勢力をはる熊襲(くまそ)の平定のときは、おばの倭姫(やまとひめ)からもらった着物で女装をして、首領の熊襲建(くまそたける)の屋敷に忍び込み、倒して勝利しました。熊襲建は、倒されながらも、日本武尊の勇敢さにほれ、自分の名前を名乗ってくれるようにたのみました。それまで日本武尊は小碓(おうす)と呼ばれていたのですが、この時期から日本武尊と呼ばれました。
しかし、敵の名前を名乗っている日本武尊を怪しんだ景行天皇は、何か下心があるのではないかと疑いました。帰路、出雲も平定して凱旋した日本武尊に、景行天皇はおそれとねたみで、すぐさま、東国十二カ国の討伐を命じます。日本武尊は、伊勢に行って、敬愛するおばの倭姫に泣きながら訴えました。「父上は私をにくんでいる」と。
倭姫は優しくなだめ、スサノオがヤマタノオロチを退治したときに発見した草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を渡しました。
よ~し、ということで、日本武尊は、尾張・敦賀を平定し相模の国に着きました。そこでは、土地の豪族が、日本武尊を、巧に野原に誘い込み、火を放ちました。猛火で身動きが取れなくなった日本武尊は、草薙の剣で草をなぎ払い、火打石を使って野原に逆に火を放つと、火は反対方向に燃え広がり、危うく一命をとりとめ、この豪族を討ち滅ぼしました。 このことから、このあたりの地名を焼津といいます。
さらに東国征伐が進み、浦賀水道を渡っているとき、海が荒れ狂いました。そのとき、付き添っていた后(きさき)の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、自分が海に入り、海神を沈めるので、あなたは、任務を遂行して下さいと言って、入水しました。
このときに弟橘が読んだ歌が、
さねさし 相武(さがむ)の小野にもゆる火の火中(ほのか)にたちて問わし君はも
(あの、相模の国の燃え盛る火の中で、私の安否を気遣ってくれたいとしい君よ)
日本武尊は、浦賀水道を越えて千葉県木更津市に上陸しました。このときに、弟橘をしのんで歌った日本武尊の歌は次の通りです。
君去らず袖しか浦に立つ波のその面影をみるぞ悲しき
※日本語はほんとにきれいですね。古代の歌が現代にそのままよみがえってきます。
そのことから、この地は、君去らず→木更津となりました。
さらに、その北の海岸に弟橘姫の袖が流れ着いたので、その地を「袖ヶ浦」と呼ぶようになりました。私が前に勤めていた会社の工場などがたくさんある地域です。
東国を平定した帰路、現在の四日市市で最後のときを悟った日本武尊は、
やまとは国のまほろばたたなづく青垣山こもれるやまとしうるはし
と歌いました。日本武尊の死を聞いて駆けつけた縁故者たちは、墓をつくり、手厚く葬りました。すると墓から白鳥が空高く舞い上がり、河内の国にとんでいきました。
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