Ⅰ 信頼と愛情の人間関係
(1)出勤簿のない会社
私たちはしばしば奇妙な風景にぶつかることがあります。たとえば、私たちが東京の主要な駅の改札口において散見する、かの「遅延証明書」の箱です。その
箱はちょうと状差しに似たもので、中に三つほど仕切りがしてあり、表面に「10分、20分、30分、40分」と書いた貼紙が施され、また「ご自由にお持ち
ください」とあって、中に「遅延証明書」が入れてあるのです。混乱や事故で会社の出勤時間に遅れたサラリーマン氏は、その箱の中から適当にカードを抜き
取って、送れたことの申し訳にそれをもってゆく、という算段らしいのですが、これはまたなんと奇妙な現象でしょうか。おそらく朝な朝なこの「遅延証明書」
の厄介になっている人たちには、必ずしも奇妙とも珍妙とも思われないことなのでしょうが、しかし間がてみれば、こんなに滑稽な風景もないでしょう。駅のほ
うではいちいち立会いで証明書を発行する人手を省き、混雑を防ぐ一方法として考え付いた妙案だったのかもしれません。いったい、その一片の紙切れに、何ほ
どの人間らしい誠意や真実性があるというのでしょうか。
※遅延証明書は現在は廃止
また、私たちが他の会社を訪れると、多少とも近代化された会社の玄関にはたいてい、タイム・レコーダーが備え付けてあります。それがないところでは「出勤簿」なるものがおいてあります。これなどもおそらく世の中の一般常識では、至極当然な備品なのかもしれません。
ある電力会社でこういう話を聞いたことがあります。この会社では、毎朝九時の出勤時間で、出社と同時に出勤簿に印鑑を押すことになっていますが、十時になればさっさと出勤簿は片付けられてしまい、十時以降に出社したものは欠勤と同じになるそうです。
またある私鉄会社の友達が、今日は出勤簿に印鑑を押すのを忘れたので一日むだ働きになったとぼやいていたこともあります。
極端な例かもしれませんが、某造船会社の工場では、朝八時五分になると固く門を閉じて、遅刻を一切みとめないということです。そこではタイム・レコー
ダーもおかず、一分でも遅れると工場に入れないので、従業員は、息せききって駆けつけても、冷たく閉ざされた門を恨めしそうに眺めながら、踵を返して帰る
よりほかに手がない、ということです。
右にあげた二、三の事例は、出勤簿という名の非人格的な制度が生み出している、現代の悲劇的というよりは、あまりにも喜劇的な風景ですが、しか し、このような風景は、なにも得意な風景ではなく、世の一般的サラリーマンが多かれ少なかれ味わっている宿命的な悲喜劇ではないかと思われます。
実際、私たちは小学校入学以来、学生生活十余年、出勤簿のお世話になり通してき、卒業して社会人になってからも、その勤める会社や官庁で、やはり 出勤簿やタイム・レコーダーの監督を受けていますので、それこそ、文字どおり「習い性となる」で、出勤簿とともに泣き笑いする会社生活や役人生活を宿命と 感ずるのも、無理からぬことかもしれません。
経営学にといても、人事管理制度として出勤簿の有無を論じているようなものはほとんどありませんし、むしろ、当然あるべきものとして規定の事実に されているようです。したがって、今ここで、出光に出勤簿がありませんなどといえば、なにか不思議の国の物語とでも感じられる方が多いのではないでしょう か。
ところが、出光には創業以来五十年、出勤簿制度というものがありません。もちろん一応の出社時間、退社時間の規定はありますが、出勤簿やタイム・ レコーダーで、出来をチェックするようなことは全然ありません。それでいた、会社の統制がとれず、営業に支障をきたしたなどということは一度もないし、出 光の社員は出勤簿のないこと自体、すでに意識していないように思えます。
このような世間一般の慣習を破った出光をみて、出勤簿とはいったい何ぞやと考え直してみるのも面白いことではないかと思います。
学生時代の出勤簿、これは、未成年の青少年時代を、先生が、人間として育て上げる一つの方法であるという意味にかんしゃくすれば、一応意義もあり、存在価値もあるように考えてよいでしょう。
さて、社会人になり、会社、官庁に入ってからの出勤簿とはいったいなんでしょうか?その本来の目的は、社員の怠慢心をいましめるとか、団体生活を 規則正しく行うためというようなことにあるのでしょうが、今では端的にいうと、社員の勤務評定の道具となり、昇給や、地位昇進のデータとして、経営者が従 業員の勤怠を監視、監督する人事管理の一手段となっているようです。つまり、ここには、経営者と従業員の愛情と信頼による心のつながりは見られず、極端に いえば従業員を人として信頼せず、ものや機械と同じように見ているように思われます。
人間誰しも、家庭に不慮の用件ができることもあれば、不幸にして病気にかかることもあります。そのような場合、会社を休んだり遅れたりするのは当
然です。第一、従業員の出来を時間で計測したり、タイム・レコーダーの記録による時間の長さによって、個人の成績を機械的に推断し、給与の按配をしような
どということは、生きた従業員の人格を認めていないように思われます。いや、もっと極端にいうと、それは意識するとせざるとにかかわらず、人間軽視、人間
不信の考え方であるとはいえないでしょうか。
こういう話があります。
出光社長(注:佐三翁)が数年前渡米したときに、メロン財閥のあるピッツバーグにおいて、地元財界のおもだった人たちが歓迎のパーティを開いてく らました。その席上で出光社長が「君たちの民主主義はにせものだ」と言ったところ、アメリカ人にすれば、民主主義を金科玉条にして誇っているところへ、一 日本人からそんな批判を浴びたもんだから、色をなしてその理由をただしてきました。そこで、「君たちは会社に出勤簿とかタイム・レコーダーを取り付けて社 員を監視しておるし、また机を同じ方向に並ばせて後ろから上役を監視するようなことをやっているでは。一瞬たりもとも目を離せないような、信頼できない人 がどうして民主主義を本当に実行できるのか」と言ったところ、一言の反論もできなかったそうです。そして、それでは、出光のところはどうしているかという ことなので、出光には出勤簿はないと言ったところ、アメリカ人にはどうしても、それが信用できなかったようだということです。
出光においては、全国八十箇所に及ぶ支店・出張所はもちろん、それぞれ200人もの人たちが働いている川崎、神戸などの油槽所、数百人の勤務する 東京本社、7~800人の従業員が昼夜をわかたず働いている徳山製油所、これらのどこにおいても出勤簿もなければタイム・レコーダーもありません。なかで も、徳山製油所のごとく、日本一の規模を誇る近代化オートメーション工場においてさえ、出勤簿もタイム・レコーダーもないということは、ここを訪れる外国 人はもちろん、他の多くの人たちの非常な驚きであり、その真偽を疑われることもしばしばです。
世間一般においても、きわめて少人数の企業などでは、あるいは出勤簿などないところがあるかもしれませんが、十行6000人に達し、しかも出勤簿もタイム・レコーダーもないというようなところは、おそらく、一般にはその例をみないのではないかと思います。
それでは、出光においてはどうして、そんなことができるのでしょうか。そのことを述べるためには、創業当時のことにさかのぼらなければなりません。
出光社長は「そのころ入店してくるのは、小学校を出たばかりの小さい子供が大半でした。その子供に付き添ってくるお母さんの『どうかこの子を頼み ます』という言葉を聞いて、私はこの母に代わって、子供を育てようと思いました」と語っていますが、この母の愛というべきものが、出光の事業経営の中にす みずみまでいきわたり、これがあらゆる形になって現れているのです。この出勤簿のないということもその一つの現れにすぎません。
この子供を育てる母の愛がもととなって、出光に働くものはすべて家族の一員であるということとなり、出光の伝統である独立自治の精神にさせられ て、各人は人間として収容を積み、経営者とか従業員とかの考えを超越して、従業員はすべて経営者であるという心がけにまで高まっていますので、いや高める 努力をしていますので、監督されたり、監視されたりする必要はないのです。そうして「従業員の間には愛情と信頼にこたえるべく、心の中に出勤簿が出来、和 気あいあいとして家族的な暖かい雰囲気が出来ているのです。
もちろん、出光の社員とて人の子でありますから、つい怠け心から遅れたり、休んだりすることもあります。しかしそれは出勤簿とかタイム・レコー ダーの圧力によって矯正されうるようなものではないと思います。怠け心とは不心得とかは人間の愛情や信頼を裏切ることになり、結局は自分自身の人格を傷つ けていることになります。そしてそれは本人の自覚に待つ以外に仕方のないことです。そういう自覚を持たせて、人間を育て上げてゆくことが出光の大きな目標 の中の一つだともいえます。それゆえ、出光は「人間修養の道場」であるとも考えています。信頼されるように努力している人たちがお互いに信頼によって結ば れているのが出光の姿であり、この中には家族的な暖かい雰囲気がかもしだされており、出勤簿などで人を監督する必要などまったくないのです。
この愛情とか信頼から生まれた、出勤簿のないということは、一般に予想されるような、無言の圧力や暗黙の監視による「強制された自発性」を意味す るようなものでは決してありません。出光の社員は、出勤簿の監視もなく、出光の仕事を通じて、国家・社会のために貢献しているという気持ちで、自由にのび のびと意欲に燃えて働いているわけです。形式的な出勤簿「になどとらわれず、自らの「心の中に出勤簿をおいて、朝は、規定時間よりも三十分も早く出社する し、夕方は仕事の終わらぬうちは、営業時間外といえども、自らの仕事に没頭して働いているのが現状です。
このような体験から、日本人は暖かい愛情と全幅の信頼を受けたときにこそ、仕事に対する生き生きとした意欲と力がでるものではないかと、私たちは 考えています。主欽慕の有無という形式上の問題ではなくて、その背後にあるものを私たちは深く考えるべきではないかと思います。
(以上抜粋)
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