「深沈厚重なるは、第一等の資質。磊落(らいらく)豪勇なるは、これ第二等の資質。聡明才弁なるは、これ第三等の資質」
この三つの資質はそれぞれ順に、人格、勇気、能力といいかえられるでしょう。つまり、呂新吾は、人の上に立つ者は、その三つの要素を兼ね備えていることが望ましいが、もし、そこに序列をつけるなた、一が人格、二が勇気、三が能力であると述べているのです。
戦後の日本は、第三等の聡明才弁型の人物をリーダーとして多く登用してきました。才に長け、弁も立ち、知に富んだ実利実用型の人物が重用され、人格的な重みを有する第一等の人物は軽視されないまでも、脇に置かれてきたのです。
このように、リーダーの器たりえない人物―才の他には内的な規範や倫理基準に乏しい、人間的な厚みや深みにかけた人物―がトップに据えられた。近 年多発した組織の不祥事、もっと広くいえば、今の社会に巣くう道徳的退廃も、どうもこのことが根幹にあると私には思われてなりません。
(中略)
うろたえやごまかし、責任逃れ、そういうものを感じることはあっても、事態にきちんと対峙し、自らの責任を認め、説明すべきは説明し、正すべきは 正していこうとする重量感ある言動がみられることは少ない。確固として信念や哲学をもたず、物事の善悪、正邪を峻別する基準さえ持ち合わせていないと感じ ざるを得ません。
あれが社会のリーダーと呼ばれる人たちの振る舞いであるなら、いまの子供たちが大人を尊敬も信用もしないのも無理はないと思えるほどです。
人の上に立つリーダーこそ、才や弁ではなく、明確な哲学を基軸とした「深沈厚重」の人格が求められます。謙虚な気持ち、内省する心。「私」を抑制 する克己心、正義を重んじる勇気。あるいは自分を磨き続ける慈悲の心・・・ひと言で言えば「人間として正しい生き方」を心がける人でなくてはならないので す。
それは中国の古典にもある。「偽」「私」「放」「奢(しゃ)」、この四つの煩いから離れた生き方ともいえます。すなわち偽りがあってはいけない し、私心があってはいけないし、わがままであってはいけないし、奢りがあってはいけない。そうした高潔な生き方をおのれに課すこと。それが上に立つものの 義務、つまりノーブレス・オブリージュというものでしょう。
【自分の生きかたの検証】
う~、つらい。目指しているけど、できていない。やっていない。わが社の経営理念は「武士道」なのに、、、、、。聖徳太子がおっしゃった「背私公向(は
いしこうこう)」と同じこと。すばらしい経営者はみんな、すばらしい哲学を持っている。とにかく、一歩一歩、仕事に鍛えられながら、前進する。人間を磨く
修行を続けます。
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