私は、こんな手紙、親父からもらったことがありません。子供の頃は、口をきくのも恐かった。食事を一緒にするのも恐かった。仕事で家にいなかった。台風 が来て、雨戸に釘を打ち付けているとき、会社が心配だと会社に行ってしまった。遊んでもらった記憶があまりない。よく家からほうりだされていました。この 記憶はたくさんある。孫には優しいですね~。
学校制度(学制)
中学校の生活になれてきましたか。
きょうは、昔(といっても戦争に負けるまでだから60年ほど前までですが「昔」という表現を使います)の学校制度(学制)のお話しをしますね。
いまの学制は6・3・3・4となってますね。真大君はいま2番目の「3」のところにいます。
昭和20年(1945)8月15日、日本は戦争に負けました。昭和28年(1953)4月28日にサンフランシスコ講和条約を結んで"独立"するまでは、アメリカ軍が日本を占領していました。
占領というのは、アメリカが日本のことをなにもかも命令することです。
6・3・3・4の学制もアメリカの命令で決まりました。でも、いくら占領されているといっても、日本という国はちゃんとあるのだから、アメリカの言うことを全部聞かず、日本の国は・・・、という主張をすることはできたのに、日本政府はそれをしませんでした。
あの戦争でドイツは国土を全部占領されるという負け方をしましたが、同じように6・3・3・4の学制をアメリカから押し付けられたとき「アメリカはたった200年の歴史しかない。ドイツの学制ははるかに古いのだ」とはねのけました。
昔の学制は①6・②5・④4・④4でした。
①は小学校―6年制
小学校には尋常科(6年)と高等科(2年)があったから、性格には「6」ではなく「6+2」としなければなりませんが、高等科は希望する人がけが行くことになっていたので「2」ははぶきます。
昔は、どんなに成績がよくても過程の生活を助けるために働かなければならない人がたくさにました。小学校を1番の成績で卒業しても、そのまま奉公(子供
が働くこと)に行かなければならなかったり、中学校にいきたくてもお金がいるからがまんして、勉強したい人は高等小学校(高等科)に進んで2年間勉強しま
した。
②は旧制中学校(中等学校)―5年制
小学校6年を卒業して上の学校(中等学校)をめざすときは、試験を受けなければなりませんでした。効率でも私立でも全部そうです。
旧制中等学校は、中学校、商業学校、工業学校、農業学校、水産学校、商船学校がありました。いまの高等学校と同じですね。
でも、まったく違うのは、いまは、商業、工業、農業学校・・・といえば、中学校で成績の悪い人がいく高校になっていますが、昔は、専門(商・工・農業・・・)の勉強したいと思う頭のいい人がそれぞれの旧制中等学校に進みました。
三菱商事という会社を知っていますね。日本を代表する会社です。戦後、ここの重役は旧制商業学校卒業がいっぱいました。
おじいちゃんたちは、いまの中学校をシンセイ(新制)といっていました。新制は中学校といい、「中等学校」といわれないことに気づきましたか。
旧制中等学校は商・工・農業にわかれていたのに、新制中学校はわかれていません。そうです、旧制中等学校はいまの高等学校と同じレベルなのです。
いまの中学校は「前期中等教育」といって、なにか中途半端な教育制度になっているのです。そしていまの高等学校は、高等教育ではなく「後期中等教育」を教える、となっています。
お話がむつかしくなりましたか、わからないところは、お父さん、お母さんに聞いてください。でも、二人とも新しい学制で勉強したのでわかるかな・・・。
③旧制高等学校―3年制
高等学校(普通科)、高等商業学校、高等工業学校、高等農林学校、高等商船学校、高等蚕糸学校(繭からとれる絹織物の勉強をする)、高等園芸学校。
水産がありませんね。昔は農林省水産講習所という学校があり、旧制中等学校を卒業した人たちが難関を目指しました。
これらの高等学校は戦後みな、大学になっています。たとえば、千葉大学園芸学部は、千葉高等園芸学校、神戸商船大学は、神戸高等商船学校だったのです。農林省水産講習所は水産大学です。
高等学校は、高度な専門技術を勉強するところです。日本で最初にテレビをつくったのは、浜松高等工業学校(いまの、静岡大学工学部)です。
専門の高等学校ばかりお話しましたが、高等学校(普通科)のなかで有名なのは、第一高等学校(旧制一高=東京)、二高=仙台、三高=京都、四高=金沢、
五高=熊本、六高=岡山、七高=鹿児島、八高=名古屋。ナンバースクールと呼ばれていました。いまは、五高は熊本大学になっています。
旧制高等学校は、このほか土地の名前をつけた、大阪高等学校(いまの大阪府立大学)などがたくさんあります。それぞれ大学になっています。
④旧制大学
トップにあったのは、東京帝国大学、京都帝国大学、京城帝国大学(朝鮮)。北帝国大学(台湾)です。もちろん旧制高等学校を卒業しなければ受験できませ
ん。だが、朝鮮と台湾には高等学校がなかったので、それぞれ、京城帝国大学予科(3年)に入ってから大学に進むようになっていました。
旧制大学の特徴は、普通科の高等学校を卒業しないと受験できない。たとえば、京城(いまのソウル)には京城高等工業、高等商業、高等農林がありましたが、普通科の高等学校ではないので、京城帝国大学を受験できませんでした。
女子の中等学校は、高等女学校といっていました。もちろん小学校を卒業して試験に合格しなければ入れません。小学校は男女共学でしたが、それからうえは、男女は別々の学校になっていました。
ああ、小学校でも、男と女は別々の組です。でも、おじいちゃんが1~4年までいた(このあと、咸興公立尋常高等小学校に転校)元山泉町公立尋常高等小学
校は白(男)、青(男女)、赤(女)の組みわけで、あのころではめずらしい男女共学でした。おじいちゃんは「青組」だったので、いまでもガールフレンドが
いっぱいいます。
おじいちゃんは転校するまでの4年間ずっと級長でした。副級長は戸嶋せつさんが4年か一緒でした。戸嶋さんは北朝鮮で亡くなっています。むかしは、せつ、いく、きく、つゆ、あや、など、「子」がつかない名前が多かったのです。
いまと全然違い学校がありました。師範学校(先生をつくる学校)です。
師範学校は、旧制中等学校とおなじく、小学校で受験。5年制でした。教育の特徴は、先生となる人たちの専門の勉強をするため、音楽の好きな人は、体操の好きな人は・・・と、その人の能力を生かすことを考えていました。
学校は、公立(府立、市立)、私立がありますが、師範学校は官立で、国がお金を出していました。生徒には官費といって、国からお金が出ていまし
た。授業料がタダだけではなく、毎月お小遣い?も国から出ていました。5年前に死んだ弟は師範学校(官立)だったので、中等学校が集まるときは、一番いい
位置に並んでいました。
師範学校は、小学校を卒業して入る尋常学校(5年制)のほか、それぞれの経歴で入学する演習科や講習科(1~2年)がありました。
師範学校(男子)も女子師範学校とわかれていました。師範学校を卒業すると小学校の先生です。旧制中等学校の先生になるためには、そのための検定試験に合格しなければなりませんでした。
高等師範学校、女子高等師範学校があり、高等学校の教員をつくっていました。戦後は、師範学校・高等師範学校が大学になっています。
昔の中等学校の生徒数は、いまの大学教員(教授・助教授・講師)の数よりも少なかった。つまり、いまは大学の先生の数が昔の中等学校の生徒の数より多いといいます。
いま、あちらこちらで「中高一貫教育」が始まってます。中(3年)と高(3年)をくっつけてしまおうということです。中学校(前期中等教育)と、 高等学校(後期中等教育:いまの高校の授業は高等教育ではない―大学が高等教育)を、中等教育としてくっつけてしまうのです。むかし(旧制)中等学校にに てきましたね。
、教育の専門家たちは、なぜ、昔の学校制度(学制)を変えたのかと、ずいぶん前から言い出しています。
むつかしかったかな。60年前はこういう学校制度だったのです。
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