【読者から】
戦前、朝鮮半島の工業化や土木事業に尽力した日本人のことが「一筆多論」(七月二十五日)に書かれていました。日本によって作られたダムや重工業の工場
などは現在の北朝鮮の地域に多く、現在も稼動している施設が多いと聞きます。このように、北朝鮮に日本が残した「資産」は、いったいどれくらいあり、現在
はどうなっているのでしょうか。
【記事の答え】
戦前の日本が朝鮮半島に残した資産は、昭和二十年八月十五日現在、GHQ(連合国軍総司令部)の資産で、八百九十一億二千万円(当時のレートは一ドル=15円)に上ります。
このうち、北朝鮮に残した資産は四百六十二億二千万円で、現在価格に換算すると八兆円を超えます。
日本は朝鮮北部を主に工業地帯として開発し、今の勧告にあたる朝鮮南部を農業地帯として開発しました。朝鮮北部では、特に、鴨緑江水系の電源開発に力をそそぎました。
この計画を最初に思いついたのは、電気技師の森田一雄氏と土木技師の久保田豊氏です。大正十三年(1924年)、両氏は朝鮮半島の五万分の一の地図を見
ながら、鴨緑江に合流する赴戦江や長津江の水を逆方向の日本海側に落とせば、巨大な電力が得られるのではないか、と考えました。朝鮮半島の東側の急勾配に
着目した発想でした。
この計画を大手電気化学工業の日本窒素肥料社長の野口遵氏に持ち込んだところ、野口氏も賛同し、その資金援助によって朝鮮北部の電源開発がスタートしました。
終戦までに、赴戦江、長津江、虚川江、華皮、水豊などの発電所が完成し、禿魯江、江界、西頭水、雲峰、義州などの発電所は、工事中のまま、終戦を迎えました。
また、日本海側の興南という地に、この電力を利用した東洋一の化学工場、日本窒素肥料興南工場がつくられ、硫安、硫燐安などの化学肥料が大量に生産されました。興南市は、工業都市として栄えました。
現在、日本と北朝鮮とは国交がなく、これらの水力発電や工場が戦後六十年を得経てどうなっているかについて、外務省も正確な実態を把握できていません。
北朝鮮への日本海側経済界の窓口である東アジア貿易研究会の調査によると、日本が完成させた水豊、赴戦江、長津江、虚川江の水力発電は今も稼動しています。
鴨緑江の水豊ダムは今も最大の発電容量(70万キロワット)を持ち、電力を中国と折半することになっています。
しかし、ダムの修理費や維持管理費を中国が負担し、それを外貨不足の北は電力で支払わざるを得ないため、実際に北へ支給される電力は、半分を大幅に下回っているようです。
また、水豊ダムを含めて送電設備の劣化による損失が大きく、電力が地方に効率よく送られていません。このため、しばしば停電が起きます。
東洋一の化学工場だった日本窒素肥料興南工場は、朝鮮戦争で爆撃を受けましたが、その後、修復され、現在も「興南肥料連合企業所」として北朝鮮の肥料のほとんどをここで生産しているといわれています。
しかし、設備の老朽化や電力不足により、同企業所を含む北朝鮮全体の年間肥料生産量は50万トンで、必要量(155万トン)の三分の一にも足りません。
このため、肥料も韓国からの援助に頼らざるを得ません。北の慢性的な食糧難も、こうした電力は肥料の不足が影響しているようです。
このほか、日本統治時代に敷かれた京義線などの鉄道は今も動いていますが、時刻通りに運転されていません。
戦前の日本は当時最高水準の技術を朝鮮半島に残しましたが、北朝鮮はその遺産を生かせず、ほとんどくいつぶしているといえます。
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