それを、書き残したいと思います。その中から、自分の生き様も検証してまいります。
ただ、私自身は、父から直接こういう教育は受けてきませんでした。なにしろ、子供の頃は、家族が生きるのに必死でしたから。
第一回目は、私の息子、真大へ、親父が平成16年に書いたものです。この欄は、期日が前後することをご了承ください。
真大君
学級委員になったんだってね。
おめでとう。
今日は、もう10年も前、「日本が北朝鮮に残した遺産」について、おじいちゃんが書いたものを送ります。
新聞記事は、今年のものですが、おじいちゃんは間違ったことを書いていないことがわかります(新聞記事も別欄で記述します)。
ちょっとむつかしいかもしれないので、お父さんやお母さんに聞きながら読んでください。
朝鮮半島の地図も入れておきます。
宝徳の家族は、北青(ほくせい)、洪原(こうげん)、咸興(かんこう)、西湖津(せいこしん)と地図ではちょっと南の元山(げんざん)に住みました。
北朝鮮に残した日本の遺産 北朝鮮はなぜ貧しくなったか(平成7年頃に書かれたものです)
あの悲惨な戦争を後の世の人たちに語り継がなければならないと言われます。その通りですが、敗戦とともに日本がしてきたことは間違った(多分に、 歴史を埋没させようとする)方向に導かれているのが現状です。(一億総懺悔)の言葉で日本のしてきたことは全部「悪」と処理されてきたのです。
韓国は北朝鮮の核放棄の条件として、200万kwの電力を供給するという提案を、北朝鮮に行ったことを明らかにしました。同時に50万トン米支援なども約束しています。
日本と同じ拉致被害国である韓国が、どうしてこうも、「ならず者国家」に支援するか不思議です。韓国ではいま500人が拉致され、一人も返されていません。朝鮮戦争で北朝鮮に連れて行かれた韓国人は8万人を超えるといわれます。
韓国(以下、「南」)が北朝鮮(以下、「北」)に200万kwの電力を供給するという記事を見て、あの当時の事情を知る僕達は???と首を傾げます。
60年前の(終戦直後)、朝鮮と満州の国境を流れる鴨緑江(おうりょくこう)の推計には、支流の赴戦江(湖 ふせんこう)、長津江(湖 ちょうしんこ
う)、虚川江(きょせんこう)にダムがあり、鴨緑江には当時、東洋一といわれた「水豊(すいほう)ダム」がつくられていました。
赴戦江(ふせんこう)、長津江(ちょうしんこう)、虚川江(きょせんこう)は、僕達が住んでいた咸興から、新興鉄道(私鉄)で行けるところだったので、名前を聞くと懐かしい思いがします。
新興鉄道は、反対側の興南にも通じ、興南には、この電力を使った、日本窒素肥料(株)(現チッソ)が大規模な化学工場を建設し、硫安などの化学肥料をつくっていました。
「北」の電力事業は、日本窒素肥料 野口 遵(したがう)さんが建設しました。さきほど、日本窒素は硫安など・・・と、お話しましたが、とても一
口ではいえないほどのコングロマリットでした。コングロマリットは、複合企業、巨大化した事業集団の文字を当てると実感が湧きます。
内地に帰ってきて、新日鉄、日本鋼管など構内をバスやタクシーが走っている工場を見ていますが、日本窒素を見ている僕には小さな感じしかありません。なにしろ、日本窒素の端から端までは、新興鉄道で40分もかかりました。
元来「北」は山岳地帯が多く、日本統治時代は、「南」は農業、「北」は鉱工業「と、これに要する電力と、おおまかな分け方がなされていました。
僕達は挑戦の発展に尽くした父祖たちの残したものを、「南」「北」はともかく、日本人だけでもいいから記憶にとどめておいてもらいたいものです。 事業もさることながら、日本窒素の社長だった野口さんは、昭和16年、全財産を化学研究所と、朝鮮の人の奨学金として寄付しています。
「朝鮮の人」という表現。僕達は日本人でなく「内地人」と言い、朝鮮人、日本人の区別はしていませんでした。みんな日本人である。当時、支那人も大勢「北」にいましたが、支那人から「朝鮮人」と呼ばれると、彼らはものすごく怒りました。「日本人」と呼べ。
戦後、日本から膨大な工業資産(含む電力)を引き継いだ?「北」は、長い間、農業国の「南」より優位に立っていました。統計によると、昭和40年 (1955年)の一人当たりの国民所得は、「南」120ドルに対して、「北」は、190ドルでした。しかしその10年後、「南」580ドル、「北」450 ドルと逆転しています。
逆転したのは、昭和40年の日韓国交正常化にともなう、日本からの経済協力(無償・有償=5億ドル)です。正常化に反対する人たちを鎮めるため戒 厳令を敷いてまで、国交正常化を断行した、朴正熈(ぼくせいき)大統領と、韓国民の成果です。北朝鮮はどうしていたのでしょうか。僕たちの父祖が残した、 あれほど豊富な鉱工業生産はどこにいってしまったのでしょうか。
日本窒素は、熊本県水俣市を発祥の地として、日本の高分子化学の草分け的な存在であるばかりでなく、日本窒素・興南工場は、電解、硫安、アンモニ
ア合成、硬化油、精錬(銅、金、鉛)、カーボン、アルミニウム電解、マグネシウム、水素(電気分解)、アルミナ、亜鉛、航空燃料(いそおくたん)、火薬等
の工場をもち、4万トンの岸壁を有していました。
酸素と水素を分解する電解工場は、東京駅と同じ長さの棟が46棟もびっしり建ち並んでいたことからも、日本窒素・興南工場がいかに大きかったかが想像できます。
バラの花などが瞬時に凍る実験でよく見る、液体窒素もここで生まれました。
先ほど書いた、赴戦高原に建設した出力100万kwの発電設備は、現在の数兆円に相当します。
この電力は、工場の使用電力量を補ってなお余りあり、社宅には、日本内地でも当時珍しかった電気コンロと、給湯設備が整っていました。この事業の集大成が、朝鮮と満州の国境を流れる鴨緑江の「水豊ダム」なのです。工事は西松組が担当しました。
僕がいまなにを言おうとしているのか・・・。
朝鮮北部に、日本が残したものは「窒素」やダムだけではありません。僕は旧制中学時代、先端的な工場などを見学しています。城津(じょうしん)にあった高周波精錬所など、当時としては世界のトップをいく技術でした。
その日本人が残した数兆円とも言われる遺産を、北朝鮮はどこにどうしてしまったのか。しばらくの間は、ソ連や中国の援助と、在日本朝鮮人総連合
(朝鮮総連)からの不正送金などで持ちこたえてきたのでしょうが、国の経済は他国からお金をもらうだけでは成り立ちません。そこには生産的な何かが存在し
ないとダメです。
日本は、朝鮮、台湾、樺太などを植民地支配したといいますが、一般的な言葉のもつ意味は、植民地支配は「搾取」に解釈されるのが普通です。だが、礼を挙
げると日本は朝鮮を「植民地」とみなかったことは、今までお話した意欲的な産業振興でわかります。実に国家予算の20%を教育を含む、朝鮮の近代化に注入
したと聞きます。
それがなぜ、どうして、金正日政権の経済は破綻し、人民は上に苦しみ、あの豊富だった電力だけではなく、肥料までも韓国に頼らざるを得ない状態になってしまったのでしょうか?
日本が残した、鴨緑江の「水豊だむ」(100万kw)。赴戦湖、長津湖、虚川江ダム(100万kw)はどうなったのか。コングロマリット―日本窒素肥料㈱興南工場は稼動していないのか。稼動していないとしたらその理由は何か。僕はしりたいことがたくさんあります。
朝鮮北部に日本窒素肥料㈱興南工女王を完成させた野口遵(したがう)のコングロマリットは、戦後、財閥解体、集中排除法等の適用を受け解体されました。
ゼロから出発した日本窒素肥料は、チッソ、旭化成工業、積水化学、ニッチツおよび、その関連会社として、それぞれ独立して発展を遂げてきています。
余談になりますが、化学調味料の「旭味」(いまもあるのかな)は、日本窒素肥料㈱延岡工場(今の旭化成工業㈱延岡工場)でつくられていました。つまり、日本窒素肥料は、化学調味料も生産していたのです。
チッソ㈱は、水俣病の補償で今も苦しい経営が続いていますが、戦後水俣工場でシリコン結晶の精製に成功するなど、高分子化学のさきがけとして高い 技術を提供しています。人造ダイヤモンドは、あの当時から日本窒素・興南工場でつくっていて、正社員の胸に「バッチ」が光っていました。
なにもない、戦後、ゼロから出発した「日本窒素肥料」が、それぞれの会社で実績を挙げているのに、設備をまるまる残して去った日本の遺産―日本窒素・興南工場をどのような状態にしてしまったのか。いずれ、日本の遺産を食い潰した経緯を北朝鮮に聞かなければなりません。
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