そのため国会では「日程は別途政令で定める」ということにされ、結局は、戦前の紀元節の日取りである2月11日に定められました。
この2月11日という日付が出てきたのは、明治時代のちょっと変な計算が元になっています。日本書紀には神武天皇が元旦に橿原に宮を建てたと書かれていますので、本来は建国記念日はお正月に祝うべきものです。
ところが明治時代に何でも過去の記念日を西洋の暦に換算することが流行りました。神武天皇の時代の暦なんてどんなものだったか全く分からないのです が、日本書紀の日付全般は、水戸家の「大日本史」編集員・藤田一正の計算により、推古天皇以前の時代の日付について、元嘉暦というこものがずっと過去にも 行われていたと仮定して作成されていることが確かめられています。
そこでその計算に基づいて、神武天皇元年の元旦が西洋の暦でいつに相当するかというのを計算してみたら、BC(紀元前)660年の2月11日になった、というわけです。
この祝日は明治6年10月に制定されましたが、この当時かなりの混乱がありました。
明治の新暦改訂は明治6年からで、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日にして、その後は西洋のグレゴリウス暦によりもとづく暦が行われてい
るわけですが、この唐突な暦の改訂に対しては物凄い反発がありました。(新暦のことが公布されたのがもう11月9日。昔のことなので地区によってはこの告
知
が来たのが、もう明治6年1月1日が過ぎたあとだったケースもある)
ところが明治6年の旧正月に、宮中では神武天皇即位の記念の祭典が行われ、それに合わせて民間でもこれを祝う行事が行われます。民間では、これは 西洋の圧力でやむを得ずあちらの暦を導入したが、お上はちゃんと今までの正月を大事にしてくれているのだ、という勝手な解釈が行われてしまいました。政府 も実際にこの日が来てみて国民の反応を見て初めて慌てます。そもそもこの明治6年の改暦自体が、多種あった改暦の意見を全て無視して、政府の一部の首脳の 決断により唐突に実施されたものでした。あまり深く色々と考えたものではなかったので、こういう穴が色々あった訳です。
しかしこのまま毎年旧正月に神武天皇の即位のお祭りをやっていては、国民の誰もが、これこそ「本当の正月」とみなして、誰も西洋式の正月を受け入れ
てくれなくなる、と危機感を持った政府は、急遽このお祭りを新暦に換算してしまい、それに基づいて新暦の特定の日付に固定しようと考えた訳です。
そこで計算の根拠が極めて曖昧なまま、こういう無茶な計算を敢行しました。
要するに「紀元節」というのは、新暦改訂の歪みが生みだした祝日なのです。
でも、しっかりとお祝いしましょうね。日本の大切な祝日です。日本人として日本の歴史を知ることは当然のつとめです。英語をいくらしゃべれても、日本のことを語ることが出来なければ、英語人ではあっても、国際人ではないですから。
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