孫への手紙

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  今回は、私の姉の息子(私の甥)の一城に関してです。甥は、私と同じ高校・大学を出て、今、毎日新聞の記者をやっています。孫が、親父を取材したものです。新聞に載ったあとに、親族に書いた手紙です。新聞記事と一緒に載せておきます。
 何度も申し上げますが、私の父は昭和2年7月1日生まれ。今年で80歳です。
  平成17年8月5日、一城がリュクサックを背負い、取材道具を手にやって来た。2日に、<戦後60年祖父との会話>を、との連絡を受けていた。
 祖父が語り、質問があり、答える。なぜそう思ったのか、と執拗に聞かれる。こんなに写さなくてもいいのにと思うほどシャッターを切る。取材は7時間半に及んだ。
 その晩はもちろん"酒盛り"
 おじいちゃんは海軍にいった。だがそんな華々しいことをしたわけではない。今も同期会を開いているが、それは海軍生活がなつかしいからであり、軍隊生活を偉そうに語ることは、死んでいった先輩同僚に申し訳ない。
 <戦後60年祖父との会話>だとしたら、二十歳前の世間知らずが、一家のことでなにかをきめるときに、おやじがいたらなあ、と思い続けた。
 <祖父の戦後60年>をテーマにするとしたら。、それを主にしてくれないかと言い、酒を酌み交わした。

 <寳德義一(注:私の祖父)生誕百年祭(注:親族で福井で祝いました)>のとき、きょうだいが集まったとき、皆さんに渡した思い出のファイルも参考にしてもらった(注:いずれこのブログに載せます)。
 みごとにまとめてある。仏壇に供えた。
 別の新聞だが、肉親の死んだ「地」が全く異なる。の記事が連載されている。"終わらない戦争"を載せてもらってありがたく思う。

 弟たちへ、「大学に行く夢を、家族を養うために絶った」は、別に恩を着せているのではないので、気にしないでください。
 あの当時それが当たり前だったのだ。むしろ、もっとなにかをしてやれなかったのかとの思いがずっと心に残っている。

 舞鶴の<平桟橋>。2度行った。小さな桟橋だった。僕は"岸壁の息子"だ。昭和33年、木の箱(中は名前を書いた木の札)を受け取った年、舞鶴引揚援護局から引揚げ停止の挨拶と、父宛ての手紙(父の氏名が目に留める ― 消息が分かるとの思いで、展示してもらっていた)が返送されてきた。

平成17年8月24日

<以下新聞記事の内容 平成19年8月19日 毎日新聞福井面>
「おやじは今も生きている」 父親の戦死を信じない祖父

 第二次世界大戦で、旧陸軍の朝鮮羅南歩兵師団に招集された宝徳義一 =福井県越前町出身= は、終戦から13年後、旧満州国間島省延吉で1940年1月25日に戦病死したとされた。戦時失踪宣言。遺骨は存在しない。義一の長男、宝徳佳男(78) =千葉県柏市= は「おやじは生きている」と信じ続けてきた。戦時中、愛媛県の松山航空隊にいた佳男は44年、自らの出征の日に父の姿を見たのが、最後。8月15日を気に、孫である記者に"終わらない戦争"を語った。【田辺一城 25歳】

 一枚のモノクロ写真。45年正月。朝鮮咸鏡南道に住む宝徳一家を撮影したものだ。海軍飛行予科練に合格していた佳男は写っていない。同年4月、義一「内地に行くから松山にも顔を出す」と佳男に手紙をよこした。「出征当日、ろくに話ができなかったから楽しみだ」

 だが、再会はかなわない。5月、松山海軍航空隊を米爆撃機B29などが急襲、壊滅した。練習生は近くの国民学校に仮住まいし、佳男は約束を忘れかけていた6月に父の出征を知った。義一は内地に来てすぐ招集され、朝鮮に帰っていた。松山に届いたはがき。
 「時局眞(まこと)に重大の折、何よりも身体を大切にしてご奉公を致さねばならぬ。父も内地に帰って、面会に立ち寄る予定であったが前に知らせた通り非常に急いで帰ったので立ち寄れず残念。父も元気で御奉公して居る。父子二人軍務に服し得られることは寳德家の為よろこばしい次第だ。しっかりやろうぞ」

 佳男は7月、本土決戦に備えて、高知県の浦戸海軍航空隊に配属、特別陸戦隊の命を受けた。「勝つために俺が死ななければ」と覚悟の一方、敗戦に向かっていくのは気付いていた。旧制中学の同級生だった陸軍少年航空兵の朝鮮人が、沖縄戦の特攻で死んだのも知っていた。「死ぬときは怖いだろうな」。毎日考えた。

 だが、そのまま終戦。翌年、ソ連軍に占領された朝鮮から脱出した母、姉、弟3人と福井で再会した。占領中、ソ連軍や朝鮮人の保安隊が夜になると「女を出せ」と迫るので、姉は頭を刈って、佳男の学生服を着ていた。二男の弟は「兄ちゃん、苦労したぞ」と嘆いた。

 佳男は長男として大阪に出て働いた。大学に行く夢を、家族を養うために絶った。二十歳前。つらい日々が続き、「殺して金を奪おう」。闇市で短刀片手に、人を付け回したこともあった。

 京都府舞鶴市引揚援護局には何度も「尋ね人」の手紙を出し、足も運んだ。国からは毎年「戦病死としていいか」と通知が届いたが、「失踪は行方不明なだけ」と拒み続けた。だが、国が58年に引き揚げを打ち切ったのを機に受け入れた。受け取った木の箱には、小さな木の札だけ。父の名前が書かれていた。こらえていたものが一気に噴出し、声を上げ泣き続けた。「何というか、悔しさしかなかった」

 その後も歩兵師団の消息はさっぱり。「シベリアに連れて行かれた」との話もある。義一が死んだとされる延吉は、シベリア抑留の中継点だ。佳男は2003年、親戚を集め「宝徳義一生誕100年祭」を開いた。今も死を信じてはいない。

 祖父が私の目を見つめて語りかけた。「戦後60年。『何かを語れ』と言うなら、一番思うのは、おやじがどうなってしまったか、ということ。いつも、おやじが欲しいと思ってきたから」

【視点(注:記者の目です)】
 新聞記者として「あの戦争」を生きた多くの方に取材させてもらった。その過程で「祖父との対話」の必要性を感じた。「個人として、肉親の戦争体験を知っているか」。幼いころから断片的に聞いていた話を残したかった。だが、記事を書いても伝えきれない。表層をなぞっただけだ。
 この夏はあらゆるメディアが戦争を語った。だが他人である記者は聞き尽くせず、そして書き尽せない。さらに言えば、祖父は孫の私にさえも語り尽くせなかったと思う。きっと思い起こしたくないことがあるのだろう。だが、だからこそ肉親の話を聞く必要性を感じた。「証言者」が亡くならない前に。
【田辺一城】

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このページは、宝徳 健が2007年3月 4日 04:41に書いたブログ記事です。

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