人の人生を検証させてくれる、よい文章には、ほんとうに敬服します。
渡部昇一氏は同郷の立志伝中のこの人を深く尊敬し、「少年時代、田中菊雄先生は私の心の中の英雄であった」と語られている。
その田中菊雄氏にこんな話がある(「知的人生に贈る」三笠書房)。
私は小学校を出ると(いやまだ出ないうちに)すぐ鉄道の列車給仕になった。
辞令を受けて帰って、神棚に捧げた時の気持ちは、いまでも忘れられない。そしてその辞令をいまでも大切に保存している。
「ほかの少年は親から十分の費用を出してもらって学校へ通える。しかし、私は明日から働いて父母の生活の重荷の一端をになわしてもらえるのだ。私の働いて得たお金で父母を助け、また私の修養のための本も買えるのだ。私は本当の学校、社会という大学校へ、こんなに幼くて入学を許可されたのだ。ありがたい。ほんとうによい給仕として働こう」。こう思うと熱い涙がほおを伝わって流れたのである。
十三、四歳の少年が初めて仕事に就いた時、心に誓った決意である。なんと立派な決意だろうか。少年期より人生に誓うものを持つことによって、氏は自らを修養し、人生を構築していくのである。
話は飛ぶ。最近、出張するたびに目にする光景がある。駅のホームで、あるいは街の路上で、制服のスカートをたくし上げ、あぐらをかいて地べたに座り込む女子高校生たちの姿である。全国どこへ行っても、である。その姿はまさに異様である。少女に本来備わっている清楚さや恥じらいは微塵もない。彼女たちの表情も体全体から受ける雰囲気もどんより澱んでいる。
一人で悪くなる子はいない。幼少期からの躾、良習慣、淘冶があってこそ人格は形成される。彼女たちはその機会を失したまま今日に至ってしまったのだ。胸が痛む。
「人間は、必ず一人には一人の光がある」とある先達は言った。しかし、一人の光が真に光を放つには、それなりの条件が要る。そしてその根本になるのが、人生に誓うものを持つということではないか、と思うのである。
山本有三作「路傍の石」の中で次野先生が少年吾一に語る言葉が思い出される。
たったひとりしなかい自分を
たった一度しかない人生を
ほんとうに生かさなかったら
人間、生まれてきたかいがないじゃないか
この言葉に感応し、誓いを持って人生を歩み出す若い魂の一人でも大からんことを願わずにはいられない。
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