切に生きる(5月11日の日誌)

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   昨日のルーティンは12個完結。今日も絶対に完結する。握手は42回。累計1787回。ルーティンをものすごく強化している。仕事もちゃんとこなす。これは大変な修行だということを最近感じ始めています。朝と夜、ちゃんと生活しないと絶対に出来ない。ほんの1時間か2時間の使い方でぜんぜん違ってくる。やるぞー!
 そんなとき、月間致知のまたまた素晴らしい言葉に出会いました。少し略しますが、書いておきます。「切に生きる」。まさに今の私が考えておくぴったりの言葉です。言葉との出会いってすごい。真剣に考えていると、言葉だけではなく、自然に、いつのまにかいろんなことと出会うことが出来る。これってなんなんだろう。だらけているときは、絶対に起きないこと。では、紹介します。
あるとき弟子が師の道元(曹洞宗の創始者)に聞いた。
 「人間は皆仏性を持って生まれていると教えられたが、仏性を持っているはずの人間になぜ成功する人としない人がいるのですか?」
 「教えてもよいが、一度自分でよく考えなさい」
 道元の答えに弟子は一晩考えたが、よく分からない。
 翌朝、弟子は師を訪ね、ふたたび聞いた。
 「昨晩考えましたが、やはりわかりません。教えてください」
 「それなら教えてやろう。成功する人は努力する。成功しない人は努力しない。その差だ。」
 弟子は、ああそうか、と大喜びした。だがその晩、疑問が湧いた。仏性を持っている人間に、どうして努力する人、しない人が出てくるのだろうか。翌日、弟子はまた師の前に出て聞いた。
 「昨日は分かったつもりになって帰りましたが、仏性を有する人間に、どうして努力する人、しない人がいるのでしょうか?」
 「努力する人間には志がある。しない人間には志がない。その差だ。」
 道元の答えに弟子は大いにうなずき、欣喜雀躍(きんきじゃくやく:おどりあがって大喜びすること)家路につく。しかし、その晩、またまた疑問が湧いた。仏性にある人間にどうして志がある人とない人が生じるのか。
 弟子は四度師の前に出て、そのことを問うた。道元は言う。
 「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない。その差だ。」
 道元の逸話である。

(中略:下記)

 切に生きるとは、ひたすらに生きるということである。いまここの一瞬一瞬をひたむきに生きるということである。小我を忘れ、何かに懸命に打ち込むことである。そのとき、生は本然の輝きを放つ。
 是の処は即ち(すなわち)是れ道場―苦しい死の床にあるこの場所も自分を高めていく道場。道元はこの言葉を唱えながら亡くなったという。
 「はかない人生を送ってはならない。切に生きよ」―道元が死の床で私たちに残した最後のメッセージをかみしめたいものである。

【昨日の私】
朝ごはん:マクドナルド
昼ごはん:ハンバーグ定食
夜ごはん:チヂミ屋の横にある居酒屋さん。最高にうまかった。岐阜はうまい店がたくさんある。

 2社のマネジャー会等を行いました。今からスタートかな?

【今日の私】
 岐阜事務所に昼過ぎまで。それから、Fさんのところに行きます。楽しみ。

※上記(中略)のところに道元の正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)の言葉が書いてあります。その訳文だけ載せておきます。

「道を得るかどうかは、生まれつきの利発さや愚かさによるものではない。修行する人は皆必ず悟りに達することが出来る。
 ただ一所懸命になって精進する人と、怠けてやる人の間には当然や早い遅いの差が生じる。精進するか怠けるかは志が切実かどうかの違いによる。志が切実でないのは、無常を思わないからだ。人は刻々と死につつある。こうして生きている時間を大切にして、自分を磨いていかなければならない」

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このページは、宝徳 健が2007年5月12日 06:39に書いたブログ記事です。

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