プロ野球ひとつとってみても、昔の人は根性が違います。見習います。
涙の御堂筋パレード ー わが心の"南海ホークス"-
平成15年10月27日。福岡ドームでは、福岡ダイエーホークス・王監督の体が宙に舞い、博多っ子を熱狂させた。
昭和33年9月28日。46年前のこの日も、平和台球場のスタンドは4万人の熱気で興奮のるつぼと化していた。当時、"野武士軍団"といわれていた西鉄ライオンズと、"400フィート打線"といわれた南海ホークス(*)との間で、この年の覇権の行方を占う大一番が行われたのだ。西鉄は前年まで2年連続日本一に輝いていた。
あの当時、夕刊フクニチ(この新聞社は倒産した)や博多で発刊するスポーツ紙には第一面に"西鉄ファンの新聞"と書かなければ売れなかったし、気性が激しい九州男児たちはそれを書かない新聞を許さなかった。
(*)いまの福岡ダイエーホークスの前身が、南海ホークスだというがそうではない。全く異質の球団だ。熱烈な南海ホークスファンだったボクがいうから間違いではない。
この前日の試合は両チーム無得点のまま引き分けていた。南海は新人エースの杉浦忠(*)
が3安打(完投)完封していたので、この日のスタンドには荒々しい雰囲気があった。
(*)杉浦は、長嶋(三塁手-巨人)本屋敷(二塁手-阪急)とともに立教三羽烏といわれ、立教大学の全盛時代を築いた。
だが、中西太がホームランを打ち、連投となった杉浦をわずか13球でノックアウトして、この試合はあっけなく決着がついた。ここでトップに立った西鉄はそのまま3連覇を達成した。だが今日は西鉄ではなく、"わが愛する南海ホークス"のお話をします。
【南海ホークス】
昭和13年、職業野球の黎明期に南海鉄道を母体に発足。戦後は小回りのきく選手を集め"100万ドル内野陣"と称して華麗な守備を誇った。昭和22年ニックネームにホークスを採用。29年に大阪球場が難波に完成した。29年、西鉄に敗れると"400フィート打線"(外野フェンスまでの距離、400フィートを超える打線)として売り出した。リーグ優勝10回、日本一2回。
南海は、監督の鶴岡一人が選手たちをわが子のように手塩にかけて育て上げたチームだった。昭和20年秋、5年ぶりに復員した鶴岡一人(陸軍大尉)は、戦前、契約していた南海(戦時中の企業統合で、当時は近畿日本鉄道)に頼まれて29歳でプレーイングマネージャー(選手兼監督)に就任した。
鶴岡は法政大学時代のつてを頼って選手を集め、昭和21年、23年とリーグ優勝を飾った。ここで、南海のエース・別所毅彦引き抜き事件が起きた。戦後、3年連続優勝を逸した巨人は、投手・別所毅彦を勧誘した。真相は諸説があり今でも藪のなかだが、エース別所を失った南海を尻目に巨人は昭和24年、戦後初優勝を果たした(当時は1リーグ制)。巨人はボクの不倶戴天の仇だ。
【鶴岡一人】つるおか・かずと-大正5年生まれ、広島県呉市出身
広島商業、法政大学を経て昭和14年、南海入り。15年に出征。20年に復員後、43年まで23年間、南海の監督を務める。27年まではプレーイングマネージャー。また、戦後33年までは先妻の旧姓山本を名乗ったが、このお話では鶴岡に統一した。現役では本塁打王1回、打点王1回、最優秀選手3回。三塁手だったが、ショートもセカンドもいらないと言われるほどの広い守備範囲だった。「見逃しの三振」が一度もなかった選球眼のいい選手だった。鶴岡は大監督である。監督通算勝利数は歴代1位に君臨する(1733勝)。2位は西鉄監督だった三原脩(1687勝)。監督として1リーグ時代含めリーグ優勝11回、シリーズ優勝2回。40年に野球殿堂入り。平成12年死去、享年83。
南海ホークスは「鶴岡」抜きでは語れないほど"鶴岡の南海"だった。鶴岡の人柄がわかるエピソードをお話しよう。昭和29年、門司東校から南海入りした宅和選手はこの年26勝、30年に24勝を挙げ、松坂大輔(西武)が平成11、12年に達成するまで高校卒で唯一、新人から2年連続で最多勝を獲得した記録を持っている。
だが、29年のオールスターゲームに全パ・リーグ監督の鶴岡は宅和をはずし、同チームのベテラン柚木を選んだ。宅和にはこう言った。「お前はこれからいくらでも出られるのだから、今年は最後になる柚木にゆずってくれ」。宅和は納得し、代わりに鶴岡から当時では2万円もする背広を買ってもらったという。
宅和と同期の皆川(投手)は「この人の言うことならなんでもできる。いい人に出会えたから、今日の私がある」と言っている。本当にチームワークが素晴らしかったと、宅和も皆川も当時を振り返っている。
【百万ドル内野陣】-1塁・飯田、2塁・岡本、3塁・蔭山、遊撃・大塚。投・攻・守の揃った華麗な布陣であった。
鶴岡イズムは強烈で「グラウンドには銭が落ちている」が彼の口癖だったし、この人は自然に(接する)だけで人を包み込む雰囲気があった。今日勝てば優勝という日、ボクは会社をサボって背広(正装)を着て大阪球場(地下鉄で30分)に出かけた。いつもは外野席だったが、この日は手にコッペパンを持って内野席をハリコム。当時の贅沢はそんなものだった。座席に着き横を見ると会社の先輩がいるではないか。
一塁側(ホームチーム側)に向かって鶴岡監督が帽子を振ると、ボクは体が震えるほど興奮した。当時でも大阪は、タイガース(大阪タイガースと言っていた)ファンはガラが悪かったが、タイガースは「虎」ではなく「猫」だといわれていたほど弱かった。南海鷹は猫などは敵でも何でもなかった(昭和25年まで1リーグ制)。
現在も破られていない"9連続奪三振"記録は、阪急ブレーブスの梶本隆夫が持っている。南海ホークスはある試合でどうしても打てなくて、三振の山を築くので、なんとかバットに当てようと「バントしましょうか」と誰かが言った。鶴岡は烈火のごとく怒り、「バカヤロー!こんないい投手にそんなことをするな」。今の野球を見て御覧なさい。なんとか塁に出ようとして、バントを多用している。プロならばセコいことをするな。鶴岡はそう言いたかったのだと、皆川投手はプロ意識を徹底的に叩き込まれた親分・鶴岡を振り返っている。
ある日の大阪球場。仕事を終えて駆けつけるともう売り切れ。警官がダフ屋を摘発して「10枚あります。並んでください」と言う。辛うじて9番目にキップを手に入れてスタンドに入るが、満員で通路から向こうには進めないのでグラウンドは見えない。ワーという歓声があがるので、前の方にいる人に『いま何がありましたんや』と聞くと、「蔭山がヒットを打ちよりましてなぁ、三塁打だっせ」と親切に教えてくれる。こんなことなら帰宅してラジヲ(テレビはない時代)を聞いておけばいいのに何がなんでも「そこ」に行かなければならないのだ。
いまでも息子が言う。「ボクは巨人ファンなのに、グリーン(南海のチームカラー)のストッキングを履かされていた」。キャッチャーだった息子は、背番号も野村の19番。我が家は南海ホークス一色に強制していた。
ボクは、近所の子供たちを集めた野球チームの監督だった。息子は捕手(この子はサッカーではゴールキーパーだったし、そういうポジションがむいているのか)。だが応援に来ているお母さんたちが「うるさい」。「うちの子はうまいのに出してもらえない」と後ろのほうでボクに「聞こえるようにササヤイテいる」。そうなるとボクは南海ホークスの捕手・野村克也にあやかって、背番号19、グリーンのストッキングをはいたわが子を出しにくい(正直、息子はうまかった)。息子にはいつも後半の出番を与えていた。
南海ホークスのライバルは西鉄ライオンズだった。大下、中西、関口のクリーンアップトリオは豪快そのもので、両チームとも打倒巨人を旗印に競っていた。巨人を倒すにはまず西鉄を倒さなければならない熾裂な戦いを繰り広げていた。
【杉浦忠】すぎうら・ただし-昭和10年生まれ、愛知県豊田市出身
豊田市出身と書いたが、杉浦が生まれたときは挙母市だった。ここはトヨタ自動車の本拠地で、後に「豊田市」となった。挙母高、立教大学から昭和33年南海入り。同年、27歳で新人王。34年、38勝4敗でMVP(最優秀選手)、最優秀防御率などタイトルを総なめにし、日本シリーズでも4連投、4連勝で巨人を破って日本一に貢献した。36年右腕動脈閉塞に苦しんだが、39年に20勝を挙げて復活。61年、南海監督に就任、平成元年まで務めた。通算成績187勝106敗。平成7年野球殿堂入り。13年11月、心筋梗塞のために死去。享年66。
杉浦は理知的な風貌をした野球界の紳士だった。外見とは対照的に強気のピッチングを見せた南海のエースだった。杉浦の武器は快速球と右打者の背中に当たりそうなところから曲がってくるカーブだった。
西鉄ライオンズと南海ホークスがパ・リーグの覇権を争っていたとき、セ・リーグでは巨人が"第二期黄金時代"を迎えていた。だからこそパ・リーグの選手たちはまずリーグを制し、日本シリーズで巨人をやっつけることを追い求めていた。それがパ・リーグ全球団の"合言葉"でもあったのだ。
西鉄は昭和31年・32年と巨人と相見えたが破れ、33年-4勝3敗で巨人を制して日本一となった。西鉄に遅れること3年-南海は宿敵・西鉄を破りこのページの冒頭に書いた杉浦忠投手の4連投4連勝で"仇敵"巨人を破って、2リーグ分裂後(昭和26年)初の日本一となり、悲願達成を祝う"涙の御堂筋パレード"に南海ファンは驚喜乱舞した。レイをかけられて帽子を振る鶴岡一人監督の緊張した顔がいまも目に残る。
南海を代表する投手・杉浦と西鉄の稲尾の直接対決は「24勝24敗3分」となる。引き分けの中には0-0の試合もある。まさに両雄ががっぷり四つに組んだ戦いだった。いまその両チームはない。
冒頭に「いまの福岡ダイエーホークスの前身が、南海ホークスだというがそうではない。全く異質の球団だ。熱烈な南海ホークスファンだったボクがいうから間違いではない」。と書いたが、ホークスは南海ホークスでありダイエーではない。これと同じようにライオンズは西武ではなく西鉄だ。日本球界に輝かしい足跡を残し、ファンをとりこにした南海ホークスと、ライバル私鉄ライオンズは今はもうない。ボクの瞼からは、南海ホークス、鶴岡監督、選手一人一人、大阪球場(難波)が消えることはない。
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