本の言葉と自分の生き方を検証する

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   ひよこクラブ推薦本の中の6冊には含まれていませんが、リーダーたるもの、一度は目を通すべき本です。『「人に長たる者」の人間学』 伊與田覚氏著 致知 出版。伊與田氏の12回の講義内容がまとめられています。すさまじい。今まで私たちが学校で学んできたものはなんだったのかと思い知らされます。1講ずつ を私の感想文形式でまとめさせていただきます。
 あくまでも私が自分自身のからだにこの本の内容を刷り込ませたいために、ブログ掲載します。興味のない方はお読みにならないように。第一講 成人と人間学:物をつくる前に人をつくる
   伊與田氏は、安岡正篤氏の高弟として、論語を徹底的に研究してきた方である。論語はご存知、孔子の教えを弟子がまとめたものである。講師は、今から約2600年前に誕生している。キリストよりはるかに昔である。釈迦よりも。
 論語によく出てくる言葉に「仁」と「礼」がある。仁とは、朱子学によると「愛の理(もと)」「心の徳(よさ)」のことである。この仁を大切にして生きて いれば、人を思いやれるようになり、おのずと礼に従って、生きていけるようになることを意味している。逆も真で、例に従った行動をしていればおのずと仁が 芽生えてくる。
 孔子の生きた春秋・戦国時代は、すさまじい時代である。周王朝が乱れ、秦の始皇帝が中国を統一するまでに、一般生活とかわらない状況で戦争が起きたのである。この時代に生きた人は、どれほど、つらく苦しい思いをしたのであろうか。約1000年である。
 この中から、このバイブルを凌ぐといわれるすばらしい教えが出てきている。とてもつらいことで、できれば経験などしたくないけれど、人間は、つらい時代 の方が、正しい教え、正しい考えが人々の間に出てくる。旧約聖書を見てもそうである。今の時代、特に日本は、このころの人間よりも衰退しているのではない だろうか。

 第一講を読んでまず、目が留まったところが「成人」と「大人」である。ただ飯を食って大きくなったのが「大人」。立派な人間になる、人間らしい人間になることが「成人」である。

 そして、個人としての人間には大切な「徳性」「知能」「技能」という三つの要素がある。ものには必ず本末がある。木でも根があり、幹があり、枝葉 がある。根は木の根本であり、枝葉は末である。人間の場合、その「本」となる部分が「徳性」であり、その徳性を育てる学を「本学」といいます。「知能」 「技能」という「末」になる部分は「末学」という。
 本学を「人間学」といい、末学を「時務学」という。

 このことを読んだとき、わかっていながら、かなりショックであった。私たち戦後教育を受けた者は、この「末学」しか学んでこなかった。だから非常 に弱い。何かあると、すぐにくじける。うまくいかないと、すぐに、他の手法・ノウハウに頼ろうとする。探さないくせに、すぐに答えをほしがる。末学が必要 ないということではなく、末学を活かせる人間力が必要だということである。

 人間学には三学がある。「小学」「大学」「中学」である。小学とは普通に一般の人が身に着けておくべき基本である。戦前の教育には「修身」があっ た。大学は、大人の学である。大人とは他によい影響を及ぼす人物である。中学とは、中人の学である。この「中」の意味がとても新鮮で面白かった。

 「中」には大きく二つの意味があるそうだ。

 まず「結ぶ」。結ぶにも二つの意味があり、「混合」と「化合」。混合とは同質のものを結ぶこと。化合とは、異質のものを結び、そこから新しいものをつくることである。

 次に、中の意味することは「当たる」だそうだ。この当たるにもふたつあり、「的中」:良いところに当たる。真ん中に当たるのを正中と言う。もうひとつが、「時中」:良いときにあたる。

 この部分に書いてある余談も面白かった。「心中」というのは、心が結ばれること。肉体的には結ばれないけど、死んであの世において心が結ばれて永遠に幸せな生活をする。そういう希望を持つことだそうだ。中国は、毒に当たる。なるほど。

 要するに「中」というのは、「調和」である。調和することによって新しいものができる。これが「創造」。

 だから、「中学」とは調和の学であり、創造の学であると筆者は述べている。多くの人の上に立つ人は、この中学は欠かせないとも述べている。多くの異質の個性ある人物を集めて、それを調和してそこに大きな働きを生ざせることが必要だからだ。
 
 一度読んだこの本を、この観点から、感想文を書きながら、まとめなおすことに至上の喜びを感じます。小学には「小学」、大学には「大学」、中学には「中 庸」があり、それを網羅したものが「論語」である。さらに、論語を一般普遍する書物が「孟子」である。この四つを「四書」という。バイブル、コーラン、仏 典よりも古い、これらを、感想文を書く際に、少し、他の書物もつまみ食いしてみたい。
 すばらしい本との出会いに感謝合掌。
 
 ちなみに人にも二面性があり、「個人としての人」「社会としての人」だそうだ。個人のことを今は「人間・にんげん」と読んでいるが、元々は「じんかん」 と読んでいた。昔の人は、一般の人を「世民」と呼んでいたが、唐の高祖、李淵(りえん)の息子、二代皇帝 李世民(りせいみん)と同じ字になるので、「人 間・にんげん」と呼ぶようになったそうな。へぇ~。「人間・じんかん」というのは、「社会人」のことで、社の前に会する、つまり、非常に敬虔な態度で接す る人のことだそうです。反省。

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このページは、宝徳 健が2007年5月13日 05:10に書いたブログ記事です。

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