本の言葉と自分の生き方を検証する

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   伊與田覚氏の『「人に長たる者の人間学』からです。前回までは、社会一般、誰でもが備えなければらない小学を見ていきました。
 今日からは、「大学」です。大学とは、「大人の学」です。大人とは何か。大人とは、他人に良い影響を及ぼす人物のことを言います。その大人たる学問が「大学」です。
 大学とは、孔子が亡くなってから、孔子の高弟がつくったとされています。その大学の冒頭に「明徳を明らかにするに在り。民に親しむ在り。至善に止まるに在り。」と示されているそうです。
   この「明徳を明らかにする」「民に親しむ」「至善に止(とど)まる」の三つを「大学」の綱領というそうです。
長いので、3回に分けます。まずは、「明徳を明らかにする」です。テーマは「大人は何かと一体感を感じる人」、言葉は「仁」です。
 所感を述べて、感じた文章を後ほど書きます。

 私は、この章を読んだときに、亡くなった母を思い出しました。子供の頃から「お母さんは、いったいいつ寝てるんだろう」「お母さんは、いったい何 が楽しみなんだろう。どうして自分の楽しみより人の楽しみを優先するんだろう」と思っていました。私の母は、三十数年間ひどい病気でした。晩年は入退院を 繰り返しました。それでも、家にいるときは、家事は絶対に人には手伝わせませんでした。「私が家族の病気を全部引き受けているから、みんなは大丈夫よ」と も言っていました。

 亡くなったとき、遺品を整理したら、ほとんど何一つ自分の持ち物は出てきませんでした。人間は、こんな生き方ができるのだろうか?といつも思って いました。この人の生き方に比べたら、今の私など、小さすぎます。周りの人間に言わせると、私には、男子教育で、とても厳しかったようなのですが、私は、 母が厳しいと感じたことは一度もありません。

 この章で説明されている「明徳」とは、心のうちにあるものが外に現れることを言います。心のうちにあるものが、正しく立派なものであると、外に出 てくる、言葉や態度、または体の表情などが、立派になっていきます。しかし、その明徳を曇らせるものが「我」「私心」「邪欲」です。これをなくすことが、 明徳を磨き上げることになります。私など、まだまだとてもできない。でも、修行は続けます。

 母は、なぜ、「我」「私心」「邪欲」を捨てる生き方が出来たのでしょうか? 彼女には悪いですが、病気がそうさせたのかもしれません。あのすごい 精神力を自分以外の家族に向けたのです。息子の私はなぜできないのでしょうか? そして、この章には、こういうことが書いてあります。「明徳が明らかに なったら、どういう状態が開けてくるのか。今まで、別個だと思っておるものの相田に通じる心が生じるのです。これを「一体感」といいます。一体感が生じ る。・・・・・この通ずる心、一体感のことを孔子は「仁」と申しました。これは文字からいうてもニンベンに「二」と書いてありますから、「二人の間に通ず る
心」という意味。」

 今の日本に、最も欠けているこの一体感。学校では、モンスターピアレントが闊歩し、企業では、会社の方針に従わない「勝手主義」の横行。「それを やって意味があるのですか?」「僕は、こっちの方がいいから、こっちをしま」など、一体感が感じられないケースが多々あります。また、国家と国民のかかわ り。自分が何もやらないのに、国が何もやってくれないと嘆く国民。また、それを煽るマスコミ。挙句の果てに、中国や朝鮮のでたらめ言うことを正しいと受け 止める、およそどこの国の国民かわからなくなる言動。「仁」。まさに今の日本に求めれていることです。

 日本の天皇には、必ずこの「仁」が名前としてつけられています。昭和天皇は「裕仁」。今の天皇は「明仁」。皇太子殿下は「徳仁」です。日本の皇室 は、生まれてきたときから、「仁」を有することを義務付けられます。誰が好んで、あのような窮屈な生活をするのでしょうか。「我」「私心」「邪欲」をまっ たく捨てた生活をします。つまり、皇室は、この明徳=仁を実践し、私たちに生き方を示してくれているのです。「もっと開かれた皇室を」とマスコミがバカな ことを言いますが、日本の皇室は、征服者である海外の王室とまったく違うのです。

 さあ、人のことばかり言っていても仕方がありません。身近に「仁」を実践して一生を終えた人がいるのです。私も、少しずつでも修行しないと、天国の母に怒られそうです。所感の最後として、明治天皇御製と昭憲法皇太后の御歌を紹介しておきます。

明治天皇
いかならむ時にあふとも人はみな まことの道をふめとをしへよ
昭憲皇太后
しげりたるうばらからたちはらひても ふむべき道はゆくべかりける

【書き留めておきたい本の文章】
☆「我」は「手」と「戈(ほこ)」を合わせた文字です。戈を手に持って「寄らば斬るぞ」と自分を守っているのが「我」なんdねす。

☆「私」の本字は「ム」です。これは人には与えないで肱(ひじ)を曲げて自分のほうにばかり引き込むという意味。ノギヘンは、植物を代表する五穀を 表します。そこで、「ム」にノギヘンがついて「私」という字になる。人間が生活する中で大切なのは、なんといっても最後は食べ物なんですね。食べ物がたく さんあるときには皆さん仏さんのような顔をしていますがね、食べ物がなくなって御覧なさい。人間のもう一つの心、自分だけに引き込もう、私しようとする心 が起こってくる。

☆ところで、漢字というものは面白いもので「ム」の上に「八」を書いて御覧なさい。コロッと意味が変わりますよ。「八」というのは「離れる」という 意味。向こうへ押しやる。ということは、自分のほうに持ってくるだけじゃなく、人にも与える。・・・これを「公」というのですな。

☆仁の心が起こると「恕」の働きとなって表れてくる。これは音では「ジョ」と読みます。「思いやり」と読みますね。「わが心のごとく相手を思う」という字です。

☆天地を結んでいる大きなはたらきのことを「造化」といいます。

☆この「造化」が物を生み出していく根本の働きをしているのでありますが、その働きをわれわれの一番手近に見ることができるのが「親」です。親というのは、子供が生まれたとたんに「親」になるのでしょう。

☆親の「辛」は、労力です。新という字は、「斤」と「辛」をあわせています。ですから、辛い思いをして、立ち木を切り倒していくような変化や創造を「新」といいます。

☆「斤」の代わりに、「見」という字を書いたら「親」となる。これはどういう意味でしょう。・・・苦労して子供を育てていく上におい、四六時中目を離さずに子供の成長を見守る。これを親という。

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このページは、宝徳 健が2007年6月 3日 05:19に書いたブログ記事です。

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