本の言葉と自分の生き方を検証する

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   伊與田覺氏の『「人に長たる者」の人間学』からです。
 今回は、第四講の「人間の天命」です。論語の言葉がたくさん出てきて、この本を読みすすめるためにはとても大切な章です。2~3回に分けて所感を述べていきます。
 ただし、今回は、ある程度書き写します。それも箇条書き形式で。なぜならば、孔子の生きた背景。日本に伝わった時期のことなどを理解する必要があるからです。次回から、感想文の形で述べていきます。

☆論語は、孔子を中心にして、その主だった弟子達の言行、それからお互いの問答を集めたもの。孔子が亡くなったあと、弟子達が編集した語録。

☆論語は「こうだ」と結論付けるものではない。私たちに考える材料を提供してくれている。

☆孔子の「孔」は姓。子は「先生」という意味。名前は「丘(きゅう)」、呼び名は「仲尼(ちゅうじ)」という。山東省のある村で生まれた。日本では西暦紀元前552年説をとっている。キリストよりも551年、マホメットよりも1000年以上前に生まれている。

☆お父さんは、とても力持ちで、戦いに敗れて帰ってきたときに、重い扉をみんなが逃げ込んでしまうまで支えていたという逸話がある。

☆孔子は、9人の姉、1人の兄がいます。古代中国では男が家を継ぐものとされていたので、孔子の父は、最初の妻が9人の女の子を生んだ後、二番目の妻を娶り、男の子を生みました。でも、体が弱く家を継げないため、三人目の妻を娶り、孔子が生まれました。この三番目の妻は16歳だったそうです。

☆孔子が押さないとき、父が亡くなり、母は、第三夫人ということもあり、家を離れました。だから、孔子の幼少時代はとても貧しいものでした。

☆日本に論語が入ってきたのは、第十五代応神天皇の時代です。西暦400年前後です。伝えたのは、百済の王仁(わに)博士です。

☆一般庶民に及んだのは江戸時代。藩校のほとんどが論語を必須としていたし、寺子屋でも、論語がテキストとして使われていた。

☆明治になって、学生が発布され、小学校では論語を直接教えなくなった。中学校以上では非常に大切な学課として扱われた。戦前の教科書の「修身」は論語の教えをもとにされていた。

☆戦後は、漢文が軽視され、論語が読まれなくなった。ただ、戦後すぐの当時はまだ家庭がしゃんとしていたから、学校教育ではなくなっても、家庭教育で自然に行われていた。

☆中国では、文化大革命のとき孔子批判が起きて、大打撃を受けた。今は、見直されている。

 さて、これらの予備知識をもとに次回から、感想文を書きます。

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このページは、宝徳 健が2007年6月17日 05:15に書いたブログ記事です。

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