本の言葉と自分の生き方を検証する

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   伊與田覺氏の『「人に長たる者」の人間学』からです。今回は、前回に引き続き、「人間の天命」の章からです。前回は、論語を知る上での基礎知識を載せました。
 釈迦は35歳にて悟りました。キリストは30歳前後です。孔子は50歳にして天命をしったそうです。
  成長・成功(人間的に)している人の言葉には、必ずこの「天」が出てきます。運を天に任せるなどということではありません(この意味も普通使われている意味とは違うのですが)。自分をどんどん鍛えていくと、何か人間の力ではどうしようもないことに出会うのでしょうか。また、自分をとことん追い込んでいくと、何か自分以外の力が働くのでしょうか。自分は何のために生きているかを知ることが天命なのでしょうか?
 私にはまだ答えが出せません。だから、必死になって、仕事(実業)をやります。修行のために。

 孔子は15歳にて学に志しました。そして30歳のとき、孔子を私淑する人たちが増え、「この道でこういう信念のもとに世の中に立っていくぞ」と決心します。これが三十にして立つ。

 でも、三十でそんなことを言っていたが、やはりうまくいくこといかないことがあり悩む。それを通り越して、四十にして惑わずが出てきます。そして、50歳で境地に到達し「五十にして天命を知る」です。

 ふ~。今、自分はどこにいるんだろう? それさえもわからない生き方。 立っていても中途半端なのかもしれません。修行修行。

 そして、この言葉が。

 子曰く、中人(ちゅうじん)以上には、以って上(かみ)を語るべきなり。中人以下には、以って上を語るべからず((形而上の言葉で話してわかる中人以上に相手なら形而上の言葉で語ってもいいが、中人以下のわからない人には、そういう言葉で語らないほうがいい」

 老子も言っています。
 上士は、道を聞いて、務めてこれを行う。
 中士は、道を聞いて、存するが如く、亡するが如し。
 下士は、道を聞いて大いに笑う。笑わざれば、以って道となすに足らず。

 上士はよい話を聞いたらすぐに実行する。
 中士は「そうだなぁ、あるといえばあるし、ないといえばないし・・・」という。「まあ、理屈ではそうだ」と      も言う
 下士は「そんなことがあるもんかい」と言って大いに笑います。そのあとが面白いのです。「笑わざれば、以って道となるに足らず」とあります。つまり「下士の人から笑われるようなものでなかったら、本当の道とは言えないと老子は言っているのです。民主主義の恐さですね。


 最後に、孔子の「六十にして耳に順(したが)い、七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰えず」です。円熟大成しても、さらに精進。生きるって厳しいですね~。

【論語の言葉をいくつか紹介しておきます】

☆子曰く、性、相近きなり。習い、相遠きなり。「性(うまれつき)というものはさほど大きく離れているものではない。しかし、躾によって、大きな差が出てくるものだ」

☆子曰く、十室の邑(ゆう)、必ず忠信丘(ちゅうしんきゅう)がごとき者あらん。丘の学を好むに如かざるなり。「十軒ほどの小さな村にも、必ず私ぐらいの誠の人はいるだろう。しかし、私の学を好むには及ばない」

☆子曰く、吾れ十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳に順(したが)い、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

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このページは、宝徳 健が2007年6月24日 04:44に書いたブログ記事です。

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