親父の私への手紙

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   孫ではなく、息子の私への手紙です。今月の6月8日に、私が、鹿児島に出張ついでに、知覧に行っていたことは、このブログでも紹介しました。父にそのことの手紙を書いたら返事が来ました。その手紙の内容です。
   知覧の特攻記念館には、お父さんの中学の同じクラスの大川正明君が祀られている。彼は3年のとき陸軍少年航空兵に志願した朝鮮人だ。
 海軍甲種飛行予科練習生(甲飛)の受験資格は中学4年1学期終了だった(お父さんは5年のとき受験)が、陸軍少年航空兵は3年終了だった。
 昭和20年4月、(今年)二十三回忌を迎えるおばあちゃんから「大川君が特攻で沖縄に突っ込んだ・・・」のはがきがきた。お父さんは「見ていてください必ず僕もやる(死)」と返事を書いたところ「誰も死ねと言っていない」と言ってきた。
 この年の5月4日、松山航空隊(松空=まつくう)は戦爆連合の攻撃を受けて壊滅した。7月15日(偶然だが今度の法事の翌日)、第11海軍特別陸戦隊員の同期生200名を率いて(お父さんが指揮官=先任伍長)高知県・浦戸航空隊に向かったときは「オレが死ねば日本は救われる」との思いだったので写真・手紙などの私物は全部焼却した。
 (健の)おじいちゃんから敵と戦うとき必要な日本刀を送ったとの知らせがあったが、関釜連絡線(下関~釜山間)が米軍潜水艦に撃沈されたのだろう、松空には届かなかった。
 お父さんは甲種予科練(甲飛)14期だが、もう1期早かったら恐らく運命が変わっていただろう。13期に志願した中学の同級生は台湾・高雄基地で終戦を迎えている。○○のおじちゃんは15期。
 東海道中期は、十返舎一九に倣って「平成の膝栗毛」と名づけてある。
 7月14日の段取りご苦労さん。
 平成19年6月19日
《先任伍長(裏面中ごろ)の解説》
 「伍」は組を表す。陸軍は最下位の下士官に「伍長」の位があった。お父さんは先任伍長だったが、同期生の中の「先任」とは人格・識見・統率力に優れた者が就く役職(威張っているのではない)で、「先に任命」された、或いは「階級が上」という意味ではない。松山海軍航空隊規程では先任伍長ではなく組長となっていて、組長は座学のとき、教室で最後尾左側の席につけなど細かく示されていた。
 お父さんは23分隊。分隊は陸軍の中隊に相当し200名。分隊長は大尉(だいい)。陸軍の中隊長も大尉(たいい)。
 陸戦隊員となって高知に向かうときは、もう戦争は負けると思っていた。航空隊に飛行機がないのだから・・・。

【宝徳よりちょっと解説】
健:わたしです。ケンではなく、「たけし」です。
今月の14日に祖母の23回忌と母の13回忌を行います。
平成の膝栗毛:父は数年前、東海道をすべて歩ききっています(何回かに分けてですが)。今度の法要でその道中記をみんなに披露するそうです。また、このブログにも書きます。元気なおっさんです。
ちなみに、私の祖父はソ連軍に満州で抑留されて行方不明になっています(亡くなったと言ったら父にしかられます)

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このページは、宝徳 健が2007年7月 3日 00:00に書いたブログ記事です。

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