ふたつとは、①物を知るという考え方、②極限状態での対応で人間に価値が決まる です。
今回は、物を知るという考え方。
この講の前半にはいろいろな例が書いてありますが、テーマは一貫して「覚知」です。つまり、「生知」「使命を覚知する」ということです。知るということに理屈はなく、ほんとうの知るということは、あれこれ説明できるものではない。
私などは、まさにこれを勉強しなければなりません。
だいたい私たちは、何かを話そうと思ったら、これを理論的に話さなければなりません。理論というのは、筋道です。アングロサクソンが大好きなロジ
カルシンキングですね。筋道を立てるとなると、いろいろと分析をしなければならない。ですから、「理」を「ことわり」と言います。つまり、「事を割る」。
一つの物を割ったら、そのものでなくなってしまう。人間でもバラバラにしてしまったら、その人間ではなくなる。だから、「事を割る」とは、「そのものから
離れる」こと。
真実から離れると、理屈という洞窟に入って出られないようになる。洞窟の中に入って、真実から離れてしまう。と筆者は述べています。
私たちの仕事で最も気をつけなくてはいけないことです。私たちコンサルタントは、当然の事ながら、たくさん勉強します。そして、コンサル先に行く と、この知識をベースに、自分達のやりたいことを説明し「説得」しようとします。相手が「納得」してもしなくても。そして、理屈を説明すればするほど、う まくいかなくなります。「人間」を見なくなってしまうんですね。経営者にもよくこういう人がいます。「なぜ、こういうことができないんだ。なぜ、こういう 当たり前のことをやらないんだ」。もちろん、その考え方は大切ですが、その前に、「理屈ではない心のつながり」が大切です。
故宇佐美史郎氏にお付き合いさせていただいた2年間、氏のそばにいると、時々「この人は恐いものがなにもなんのではないか」と感じることがありま した。申し訳ない言い方ですが、氏には、「学知」はありません。「困知」は人一倍体験されたことでしょう。でも、理屈ではない「生知=覚知」を感じること が多々ありました。よくしゃべるんですが、ほとんど説明しないのです。
もちろん、学知、困知の体験に仕方が私に足りないということはわかっています。もっと、自分を鍛えて、早くこの「形なこ形が見え、声なき声が聞こえる」、「説明がいらない」境地に達したいものです。
これを知命というそうです。
孔子は、五十にして天命を知るです。
偉大な企業経営者を勉強すると、必ずこの哲学のような境地に達しています。経営とはそういう人間を鍛えてくれるすばらしいことなのだろう。私は、まだまだ、未熟な経営者。正しく物を知る人間になります。
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