そんな変なやからが宗教をゆがめていますし、宗教戦争などというものがあり、変なイメージを与えていることもあるのでしょうね。
でも、宗教は、もともと「人の正しい道」を示すものです。邪教に囚われず、しっかりと見据えていけば、身近に存在するものに親しみが持てることもありま す。「仏を観ずる」シリーズを書きます。観ずるとはなりきること。私自身、専門家でも何もありませんが、自分自身の勉強や戒めのために書いていきます。
最初は盂蘭盆です。
漢字で書くと「真坂」です。予期していないことが起こったときに使う意外性をあらわす言葉です。
難しい言葉で倒懸(とうけん)ともいい、仏教の発祥地のサンスクリット語で「ウラーバン」と発声します。これが盂蘭盆になり、お盆になりました。
こんな話しがあります。お釈迦様の一番弟子の一人に「目連(もくれん)」という人がいました。目連には、神通力があったようです。その神通力で、 亡くなった母が今どうしているかを透視しました。するとなんということでしょうか。地獄の餓鬼道に落ちてもがき苦しんでいるではありませんか。生前、とて も優しく愛情深く賢かった母が。目連は、その理由をお釈迦様に訴えました。お釈迦様はその訴えを長い時間お聞きになられました。目連は訴えているうちに自 分自身の幼い頃を思い出しながら反省し始めました自分を立派な子供に育てるために、あるときは、他人の子供を蹴落としてまでのことをやったのではないだろ うか。自分自身のために、罪深い自己犠牲をされたのではないだろうか。罪を犯させたのは、自分ではないだろうか。などなどの「まさか」に思いを深めたので した。
まさかの状態は、不安と緊張の状態です。誰しも、それをのがれて安心を得たい。でも、その「まさか」をいつも受け止めなければならない。お盆に は、祖先や愛した人のことを思い出します。その時に、自分のまさかを受け止めましょう。そのために、お盆には亡くなった方が帰ってきます。亡くなった方を 祀るのではなく、自分自身を受け止めるのがお盆なのかもしれませんね。
自分と向き合う。生き方の基本です。あ~、罪深いことばかりしてきた私は、まだまだ修行です。
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