このシリーズは左下のカテゴリー「和歌」に格納されています。
万葉集に以下の和歌があります。
今日よりは 顧みなくて 簿置き身の 醜(しこ)の御楯(みたて)と 出で立つわれは
醜というのは「みにくい」という意味ではなく「勇猛だ」という意味です。「今日からは断ちがたい私の心にそむいて、みかどの勇猛な守護兵として出て
行くのだ」という決意の雄たけびのような表現です。決して滅私奉公ではありません。聖徳太子は「背私向公(はいしこうこう)」、私に背いて公に向かうとい
うことをおっしゃっています。これは自分の私情を滅して、公だけの人間になれと要求することではありません。戦前の教育が間違っていたと言う不埒な輩は、
ここを履き違えています。滅私奉公では人間の心はありません。教育勅語でも、人間性を磨きに磨き、みんなで仲良く一致団結して国をつくろう。でも、一度国
家に何かあれば、みんなで立ち向かおうとあります。
この歌は。「私」の心に後ろ髪を引かれるような思いをしながら、なおかつ自分の使命のために、その「私」の心にそむいて出かけていくという日本人ならで はの考え方が出ています。日清、日露戦争は、「背私向公」の理念があったため勝利しました。大東亜戦争の軍部指導者は「滅私奉公」を強いたため負けまし た。大東亜戦争が侵略戦争ではなかったことは、絶対的な歴史的事実ですが、軍部指導者の考え方だけは許すことはできません。
この歌は。「私」の心に後ろ髪を引かれるような思いをしながら、なおかつ自分の使命のために、その「私」の心にそむいて出かけていくという日本人ならで はの考え方が出ています。日清、日露戦争は、「背私向公」の理念があったため勝利しました。大東亜戦争の軍部指導者は「滅私奉公」を強いたため負けまし た。大東亜戦争が侵略戦争ではなかったことは、絶対的な歴史的事実ですが、軍部指導者の考え方だけは許すことはできません。
さて、今日の拙首です。
自らの 日々の生き方 振り返り 大ばか者と 叫びたくなる
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