戦国時代は、殷→周→春秋時代の後に続きます。周のはじめ約八百あった諸侯は、春秋時代には焼く百四十に統合されます。弱小国が淘汰され、天下に 号令する覇者と呼ばれる人が出てきます。でも、春秋時代には、まだ、周の天子をおしいだいています。それが、周がほろび、戦国時代へと突入していきます。 高校時代の国語の教科書に「鼎(かなえ)の軽重を問う」というのがあったのを覚えていますか?これは春秋時代の話です。機会があれば紹介します。今日出て くる呉王夫差は越王匂践(こうせん)も、臥薪嘗胆の話で高校時代に習いましたね。
さて、昨日に引き続き「百里を行く者は九十里を半ばとする」です。ある重臣が秦の武王を諌めます。昨日は古代の聖人たちも、物事に初めと終わりを重視し
たと諫言したとことまででした。重臣の諫言が続きます。
「なぜそう言えるか例をあげましょう。
昔、知伯(ちはく)は、中行(ちゅうこう)氏を滅ぼしたうえ、趙氏の本拠である晋陽(しんよう)を包囲して当たるべかざる勢いでしたが、結局は趙氏、魏
氏、韓氏の連合軍に討ち取られてしまいました。また、呉王夫差は越王匂践(こうせん)を追い詰めて降伏せしめた後、他国と戦って勝利を収め、諸侯を従えま
したが、最後は匂践に捕らえられ自害しました。みんな、実力はあって、最初はよかったのですが、最後まで持続できなかったのです。
今、王は、宜陽(ぎよう)を攻略して韓の領内を荒らしまわりましたが、天下に人々に一言も文句をつけさせませんでした。さらに、各国と断交して周 の領内に侵攻しましたが、その間、わが国に軍をさしむける国はひとつもありませんでした。もしここでもう一段のツメを怠らなければ、偉大な事業を達成する ことができるでしょう。逆にツメを誤って、あとあと禍を引き起こすような事態になれば、天下の諸侯から笑われるでしょう。詩にも「百里を旅する者は九十里 を半ばと心得よ」とあります。」
まだ、つづきます。明日のお楽しみ。
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