どの本よりわかりやすい南総里見八犬伝

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 昨日は、時代背景を掲載しました。さて、今日は犬塚番作と手束(たつか)のなれそめですね。
 犬塚信乃の父親、犬塚番作は、もとは大塚村の荘園主だった父、大塚匠作(ここ気をつけてください。犬塚ではなく、大塚です)の子でした。
 番作は父と共に、機能説明した結城合戦に参加して大いに働きました。将軍になろうという野望に燃えた鎌倉管領足利持氏が闘いに破れ、嫡男義成とともに、詰め腹を切らされたとき、持氏卿の次男春王(しゅんのう)、三男安王(あんのう)は、からくも敵軍の囲みを潜り抜け、下総(しもうさ)の結城氏朝(うじともに迎え入れられました。

 新管領足利清方、持朝の大軍は結城城を包囲しましたが、里見季基(すえもと)・義実(よしざね)親子をはじめ、持氏恩顧の武士は、春王、安王のもとに馳せ参じ、よく戦い籠城三年に及びました。

 でも、援軍もなく、食料・武器ともに尽きはてて、ついに落城しました。春王、安王は捕えられ、城内に立てこもった結城勢は全滅しました。持氏卿の近習だった大塚匠作も当時十六歳だった番作とともに、結城城にこもりましたが、落城の際、匠作が番作に言いました。

「わしは、両王のおんあとをつけて、機会があったらひそかに盗み出そう。それがだめなら、その場で斬り死にして地獄の底までお供いたす。おまえは大塚に戻って、母をみてくれ。そして、春王君が世に出られることがあったら、源氏の重宝として伝えられたこの銘刀村雨(めいとう むらさめ)をお返しするように」

 匠作はこう告げると、乱軍の中に姿を消しました。

 匠作は、戦場逃れて、両王のあとを追いますが、春王たちが美濃の国で殺害されたので、刑場に踊りこんで、殺されます。そのとき、矢のように刑場に飛び込んで、足に痛手を負いながら、両王と匠作の三つの首をもって逃げ失せた若者がいました。それが、万策です。

 番作は。山寺で山賊坊主どもを退治して、そこにとらわれていた、娘、手束と結ばれました。手束もやはり、結城合戦で討ち死にした勇士の娘だったのです。ふたりで、信濃の温泉に入り、刑場に切り込んだときのキズを癒し、故郷の大塚村に戻りました。

 さて、みなさん、大塚という姓がなぜ犬塚になったのでしょうか。次回それを書きますね。そして、何と言っても、「銘刀 村雨(めいとう むらさめ)」これが、八犬伝で大きくクローズアップされる刀なので、この名前は絶対に覚えておいてくださいね。

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このページは、宝徳 健が2009年11月28日 01:08に書いたブログ記事です。

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