どの本よりわかりやすい南総里見八犬伝

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 犬塚信乃が生まれたところからでしたね。
 父の番作は「さて、この子の名前をなんとしよう」と妻の手束(たつか)に聞きました。手束はしばらく考えて、

「私たちは男の子を三人生んだのに三人ともすぐになくなりましたわね。子運の弱いときは、男の子なら女の子の名前をつけ、女の子として養育すればつつがなく育つといいます。この子も十五になるまで女の子として育てたら、無事ではないでしょうか」と言いました。

 これは昔から日本の風習としてありました。男の子は幼少時はとても体が弱く、医学が発達していなかった頃は、すぐに死んでしまいました。ですから、小さい時は、女の子の髪型、服装をするというのはよくあったのです。

番作は、笑いながらも、まあ、手束の願いをかなえてやるかということで、信乃と名づけました。ススキの穂の長いのを「しのススキ」というので、命の長いように信乃(しの)と名づけたのです。

 そして、赤飯を炊いて、魚を煮て、刺身も用意して、村の子供たちを呼んで盛大なお祝いをしました。手束は、信乃に女の服を着せて、紙を結うて櫛はかんざしをさして「信乃よ、信乃よ」と呼んだので、知らぬ人は「なんとかわいい女の子だろう」とほめそやしました。

 蟇六と亀篠は面白くありません。淫婦(いんぷ)に石女(うまづめ)多し、という諺通り、亀篠は四十過ぎても子をもうけませんでした。石女っていう言葉はいまは使わなくなりましたね。子供を産まない女性のことです。

 さて、蟇六と亀篠はどうするのでしょうか。つづく。




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このページは、宝徳 健が2009年12月 1日 09:22に書いたブログ記事です。

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