和歌

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 大伴家のことについて説明を始めました。
 大伴家は、軍事的な要素が強く、天皇家を守ることを誇りに思っていました。また、大伴一族のひとりが、新羅に攻め入り成功したこともこの一族の誇りを満たすには十分でした。
 しかしながら、任那が新羅に滅ぼされたことから、大伴一族は次第に精力を失っていったのです。西暦562年のことです。家持が生まれる150年以上も前のことです。勢力を失ったとはいえ、大伴家は、藤原家、長屋王と並ぶ名家です。

 家持の父である旅人は、高級官僚の道を難なく歩き続けました。五十四歳にして家持(やかもち)、書持(ふみもち)、留女(りゅうじょ)の三人の子供を次々に持ちました。ところが、六十五歳という高齢で、旅人は九州の大宰府に赴任することになりました。妻と十一歳になる家持とともに、旅立ち、なんと、大宰府についたとたんに、妻が病死してしまったのです。

 その時の歌が、数日前に紹介した、

 我妹子(わぎもこ)が 植ゑし 梅木の 見るごとに 心むせつつ 涙し流る

 なのです。旅人は大宰府で心労のあまり病気になってしまいました。書持(ふみもち)、留女(りゅうじょ)も見舞いに来て、一命を取り留めました。都に帰った旅人は、大納言に昇進しますが、やはり妻のことが忘れられません。その時に旅人が詠んだ歌が昨日の歌です。

 今日は解説が長くなりましたので、新しい和歌は紹介せず、拙首といきます。

 渋滞に 何事なのかと ふと見れば 造幣局の 通り抜けの日

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このページは、宝徳 健が2010年4月15日 06:00に書いたブログ記事です。

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