和歌

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 大伴旅人(おおとものたびと)が奥さんを亡くし、それを偲ぶ歌を詠んだところまででした。
 旅人は、その悲しみから帰京七ヶ月で他界してしまったのです。家持兄弟は、家持十四歳にして良心を失ったのです。しかし、世の中とはよくしたもの、叔母の坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が家持(いえもち)と書持(ふみもち)の世話を実によくしてくれました。

 坂上郎女は、家持の屋敷に留まって、しきりと宴会を開きました。つまり、家持を社交界へとデビューさせていったのです。宴会に歌会はつきものです。家持もどんどん腕をあげて十五歳にして初めて人に見せられる作を二首ばかり詠みました。

 家持が女性達との数多い恋に走ったのはこの頃からです。最初は、年上の女性ばかりでした。年上の女性によって性に目覚めた家持でしたが、心のどこかで、自分がいたわり慈しめる年下の女性を求めるようになりました。

 家持が二十二歳のとき、そんな想いを寄せていた、年下の女性が二十歳という若さで亡くなりました。父、旅人が亡き妻を詠んだ歌のように、家持もその女性に歌を送ります。半年以上詠み続けたそうです。

 さて、家持もいよいよ正式に政務に就くようになりました。天皇の行幸に付き従い、多くの場所を巡り、忙しい日々を送っていた折も折り、安積皇子(あさかのおうじ)がわずか十七歳で殺害されたのです。聖武天皇の息子です。藤原氏の暗殺だといわれています。

 大友家は、元々天皇家をお守りする立場です。家持は、この時、次のような歌を詠って、自分の力のなさを嘆いています。

 大伴の 名に負ふ靫(ゆき)帯びて 万代(よろづよ)に 頼みし心 何所(いづく)か寄せむ

「大伴の靫負(ゆげい)という名を持つ靫(ゆき)を負って万代までお仕えしようと頼みにしていた心はどこに寄せたらよいのか」

 では、拙首です。

 この寒さ 姿かくして まあだだよ 北の大地の 今年の春は






 

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このページは、宝徳 健が2010年4月18日 08:35に書いたブログ記事です。

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