戦国策

| コメント(0) | トラックバック(0)
 このシリーズは右のカテゴリー「戦国策」に格納されています。

 中国古代、戦国時代の人々の、絶妙な生きる力を書いた「戦国策」を紹介しています。

 今日は有名なことわざ、「まず隗(かい)より始めよ」です。
 紀元前四世紀末、燕は内乱が起こり、これに乗じた斉の侵略を受けて壊滅状態になりました。そのさなかに即位したのが昭王です。

 昭王は、敗戦の恥をすすぐため、礼を尽くし、禄を厚くして、人材を招こうとしました。そこで、まず、郭隗(かくかい)先生に相談しました。

「わが国は、内乱に乗じて斉に敗れました。この恥をすすぎたいが、小国の悲しさ、力不足はいかんともしがたい。この際、人材を招き、その強力を得て、先代の恥をすすぎたいが、ついては、先生の考えをお聞かせ願えますか?」

 郭隗は答えました。

「帝王はよき師をもっております。また、王者はよき友を、覇者はよき臣をもっているもの。しかるに国を滅ぼす王は、つまらぬ臣をかかえているものです。人材を招きたいとおっしゃるが、それにはいくつかの方法があります。礼を尽くして相手に仕え、謹んで教えを受ける。これならば、自分よりも百倍もすぐれた人材が参ります。相手に敬意を表し、その意見にじっと耳を傾ける。これならば、自分よりも十倍すぐれた人材が集まります。

相手と対等にふるまう。これでは自分と似たり寄ったりの人間しか集まりません。

床几にもたれ、杖をにぎって横目で指図する。これでは小役人しか集まりません。

頭ごなしにどなりつけ叱り飛ばす。これではもはや下僕しか集まりません。

これば人材招致の常識です。今、広く国内の人材を選んで教えを受ける。この噂が広まれば、天下の人材は、われもわれもと集まってきます」

王「では、誰に教えを受けたらよろしいですか?」
隗「こんな話を聞いたことがあります。むかし、ある王が、千金を投じて千里の馬(一日に千里も走る名馬)を探し求めました。三年かかっても手に入れることができませんでした。そのとき、『わたしが探してまいります』とお付の者が申し出ました。王はこの男にまかせました。それから三ヶ月、男は、千里の馬の居所を聞き出しましたが、いざ行ってみると馬はすでに死んでいたのです。男は馬の骨を五百金で買取、帰って王に報告しました。王は立腹し、『ほしいのは生きている馬だ。死んだ馬に五百金も出すバカがあるか』と言いました。男は答えました。

『死んだ馬さえ五百金で買ったのです。生きた馬ならもっと良いねで買ってくれると、きっと評判になります。馬はすぐにでも集まってまいります。』

 はたして、一年もたたぬうちに、千里の馬が三頭も集まってきたということです。あなたも本気で人材を招こうとなさるなら、まずわたし、この隗からおはじめください。わたしのような者でも大切になされるとすれば、私よりすぐれた人物はなおさらのこと、千里の道も遠しとせずにやってまいりましょう」

 そこで昭王は、邸宅を築いて郭隗に与え、師と敬って教えを受けることにしました。すると魏の国からは楽毅(がっき:天下の名将)が、きたのをはじめ、各国からたくさんの人材が燕に馳せ参じました。昭王は、戦死者をいたみ、生存者の安否を気づかい、喜びも悲しみも人民と共にしました。

 こうして二十八年、国力は充実し、休養十分な兵卒は戦いを恐れなくなりました。

 時は来ました。燕は楽毅を総大将にし、秦、楚、三晋と語らって斉に攻め入りました。斉は敗れ、斉の王は国外に逃亡しました。

 燕の国は単独で、敗走する敵を追撃、斉の都に入城するや斉の宝物をことごとく奪いました。

 斉は二城を残すのみとなりました。

 「まず隗よりはじめよ」という言葉の意味は、まず、身近なところからはじめよということです。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/1091

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2010年5月31日 05:08に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「和歌」です。

次のブログ記事は「勉強すればするほど(5月30日・31日の日誌)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。