このシリーズは右のカテゴリー「心理学」に格納されています。
前回はカウンセリングの中で大切なリレーションの意義を説明しました。今日は、クライアント(患者)がそのリレーションを感じるために、カウンセラーはどのようなことをすればいいかです。
「受容」と「支持」です。
このうち、受容を説明します。
経営者・リーダーの方々はカウンセリングの手法を取り入れてみてください。自分が変わることによって相手が変わることを知ることができます。
前回はカウンセリングの中で大切なリレーションの意義を説明しました。今日は、クライアント(患者)がそのリレーションを感じるために、カウンセラーはどのようなことをすればいいかです。
「受容」と「支持」です。
このうち、受容を説明します。
経営者・リーダーの方々はカウンセリングの手法を取り入れてみてください。自分が変わることによって相手が変わることを知ることができます。
受容は言葉で言えば、ものすごく簡単なことなのです。相手の話を「うむ、うむ」と合槌をうちながら聞くことだけだからです。 これを専門用語で言うと「非審判的・許容的な雰囲気をつくる」といいます。
でも、これが意外と大変なのです。大変な理由が三つあります。
みなさんは。三つの「ち」をご存知ですか?
血:血統・親族・家族など
地:土地柄・風土など
知:知識・経験など
が三つの「ち」です。この三つの「ち」は、人によってまったく違います。そして、一人ひとりにまったく違う価値観を植え付けます。それを「パラダイム」と呼びます。
受容ができない三つの理由(と言ってもかなり奥が深いので、今日は最初のひとつだけ)
第一:われわれすべての人間は価値観をもっているから。
「~するべきだ」「~しなければならない」などの表現が口からでできます(これを非主体的表現といいます。の「べき」「ならない」が一人ひとり違うのです。
「離婚すべきではない」「長男は親と同居すべきである」「年長者に口答えをすべきではない」・・・したがって、自分のもっている価値観に反する言動を相手が示すと、どうしてもそれをとがめたくなります。
「なぜ、そんなことをしたのか」「遅刻したらだめなことぐらいわかるだろう」な度というものです。教師・警察・税務署などの人たちはこういう咎めを含んだ言い方をしてしまう人が多いですよね。
カウンセリングでは、「治そうとするな、わからせようとせよ」を基本姿勢にしています。このわかろうとする態度が、「うーむ、なるほど」という反応になって現れるのです。裁く姿勢、とがめる姿勢、治そうとする姿勢がなぜいけないのか、その理由に、またまた三つあります。
①とがめられ非難されて喜ぶ人間はいないからです。多くの場合、防御的になるか攻撃的になります。したがって、リレーションがつきません。そればかりか、憎悪が倍加して症状が重くなります。
②自分の価値観を相手に押し付けることになるからです。「私は親と同居している。ゆえに君も親の面倒を見てやるべきだ」「私はウソをつかないことを信条としている。だから、君も私の信条を君の信条にすべきだ」
これが何を意味するかわかりますか? 「あなたは私の好み通りに生きるべきだ」を要請する権利を持ってしまっていると錯覚していることです。価値観とは、その人が自分個人の人生を律していく場合の指針であって、他者には他者の価値観があります。その他者の価値観を許容すること態度をカウンセリングではとります。
他者の価値観のどこかに無理があるので、問題が起こっているからです。
③価値観が相対的だからです。相対的なのに絶対的に「べき」「すべき」という表現を使います。これは原則論から言っても理にかなっていないですよね?相対的なものをあたかも絶対的に言い切るわけですから。
さて、今日は、受容することが大変な、三つの理由のうち一つ目を勉強しました。「すべての人間は価値観(パラダイム)」をもっているからでした。
じゃあ、相手の言うとおりにしなければならないのかって? そんな迎合みたいなことはできないって? はいはい、わかりました。では、次回は、その価値観にこだわらなくするためにはどうすればいいかを勉強しましょうね。
それでは、さいなら、さいなら、さいなら(淀川雅治チックに:・・・・古い・・・ 知らない人の方が多いかも)。
でも、これが意外と大変なのです。大変な理由が三つあります。
みなさんは。三つの「ち」をご存知ですか?
血:血統・親族・家族など
地:土地柄・風土など
知:知識・経験など
が三つの「ち」です。この三つの「ち」は、人によってまったく違います。そして、一人ひとりにまったく違う価値観を植え付けます。それを「パラダイム」と呼びます。
受容ができない三つの理由(と言ってもかなり奥が深いので、今日は最初のひとつだけ)
第一:われわれすべての人間は価値観をもっているから。
「~するべきだ」「~しなければならない」などの表現が口からでできます(これを非主体的表現といいます。の「べき」「ならない」が一人ひとり違うのです。
「離婚すべきではない」「長男は親と同居すべきである」「年長者に口答えをすべきではない」・・・したがって、自分のもっている価値観に反する言動を相手が示すと、どうしてもそれをとがめたくなります。
「なぜ、そんなことをしたのか」「遅刻したらだめなことぐらいわかるだろう」な度というものです。教師・警察・税務署などの人たちはこういう咎めを含んだ言い方をしてしまう人が多いですよね。
カウンセリングでは、「治そうとするな、わからせようとせよ」を基本姿勢にしています。このわかろうとする態度が、「うーむ、なるほど」という反応になって現れるのです。裁く姿勢、とがめる姿勢、治そうとする姿勢がなぜいけないのか、その理由に、またまた三つあります。
①とがめられ非難されて喜ぶ人間はいないからです。多くの場合、防御的になるか攻撃的になります。したがって、リレーションがつきません。そればかりか、憎悪が倍加して症状が重くなります。
②自分の価値観を相手に押し付けることになるからです。「私は親と同居している。ゆえに君も親の面倒を見てやるべきだ」「私はウソをつかないことを信条としている。だから、君も私の信条を君の信条にすべきだ」
これが何を意味するかわかりますか? 「あなたは私の好み通りに生きるべきだ」を要請する権利を持ってしまっていると錯覚していることです。価値観とは、その人が自分個人の人生を律していく場合の指針であって、他者には他者の価値観があります。その他者の価値観を許容すること態度をカウンセリングではとります。
他者の価値観のどこかに無理があるので、問題が起こっているからです。
③価値観が相対的だからです。相対的なのに絶対的に「べき」「すべき」という表現を使います。これは原則論から言っても理にかなっていないですよね?相対的なものをあたかも絶対的に言い切るわけですから。
さて、今日は、受容することが大変な、三つの理由のうち一つ目を勉強しました。「すべての人間は価値観(パラダイム)」をもっているからでした。
じゃあ、相手の言うとおりにしなければならないのかって? そんな迎合みたいなことはできないって? はいはい、わかりました。では、次回は、その価値観にこだわらなくするためにはどうすればいいかを勉強しましょうね。
それでは、さいなら、さいなら、さいなら(淀川雅治チックに:・・・・古い・・・ 知らない人の方が多いかも)。
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