誰にでもわかる大東亜戦争の真実

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 当時、米英にいじめ尽くされた日本は、昭和十六年九月六日の御前会議で「開戦やむなし」と天皇陛下に報告します。すると昭和天皇は、明治天皇の御製を二度、お詠みになられました。

四方(よも)の海 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風の 立ちさわぐらん

 この昭和天皇の意をくんでなんとかもう少し戦争を回避する努力をしてみようと、当時のリーダーたちは、屈辱とも思える姿勢でアメリカと交渉します。しかし、アメリカは、それを鼻で笑い、最後にハルノートを日本に突きつけました。
 東京裁判で、インドのパール判事が、「こんな内容をつきつけられたら、モナコ公国やルクセンブルグ大公国だって戦うために立ち上がる」と日本の無罪を主張しました。でも、受け付けられませんでした。

 ハルノートは、当時の米国国務長官「ハル」にちなんで付けられた名前ですが、実はこのハルはこれに関与していないのです。モスクワコミンテルンから送られてきたスパイがハルの部下になり、そいつがハルノートの内容を作り、先にルーズベルトに見せて了解を得てしまったのです。大統領の命令を無視することができないハルは、それを日本に突きつけました。ソ連は、日本が米国と戦争を行うと、日本の精鋭部隊が太平洋に行き、支那の軍が手薄に成るので、日米開戦をなんとか実現させようと暗躍していました。それに、日本と戦争がしたくて仕方がなかったルーズベルトがのってしまったのです。

 どうですか?侵略戦争ですか?みなさんは、オレンジ計画を知っていますか?ルーズベルトが、ずっと前から日本を戦争に巻きももうとした作戦です。次回説明しますね。

日本人はもうそろそろ目を覚ましましょう

 さて、「東條英機宣誓供述書」の解説を続けましょう。日独伊三国同盟について、この供述書は十~十三の三つが述べられています。その十の後半を今日は見ていきます。

 一九四〇年(昭和十五年)九月十九日の連絡会議では同月四日の会議の合意を認めました。その内容は四つです。

一、三国の関係を条約の形式にするかまたは、原則を協定した共同声明の形式にするかという点で松岡外相は共同声明の形にするのはよろしからずとの意見であった。

二、独伊との関係が米国との国交に悪影響を及ぼしたくないということについては、独逸は米国の参戦を希望していない、独逸は日米衝突を回避することを望みこれに協力をあたえんと希望しているとの説明であった。

三、もし米国が参戦した場合、日本の軍事上の立場はいかになるやとの点は、松岡外相は、米国には独伊系の国民の勢力も相当存在し世論にある程度影響を与えることができる。したがって米国の参戦を回避し得るできるし、万一米国参戦の場合にはわが国援助義務発動の事由は十分これを留保することにしていく(つまり、この時点では、米国は欧州戦に参加、日本との決戦を想定していない)。

四、ソ連との同調は独逸も希望している。


 これらの内容を同日午後三時頃からの御前会議で報告しました。

 すると原枢府議長より次の言葉がありました。

「米国は日本を独伊側に加入せしめざるためかなり圧迫を手控えているが、日本が独伊と同盟を締結しその態度が明白とならば対日圧迫を強化し、日本の支那事変遂行を妨害するに至るではないか」

 これに対し、松岡外相は次のように答えています。

「今や米国の対日感情は極度に悪化しておって単なる機嫌取りでは回復するものではない。ただわが方の毅然たる態度のみが戦争を避けることを得せしめるだろう」

 なんとか戦争を回避したいリーダーたちの思惑が見て取れます。学校の教科書では、戦争をするために日独伊三国同盟を結んだとあります。まったくのウソですね。情けない。

 次回は、十一を説明します。

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このページは、宝徳 健が2010年9月 1日 07:29に書いたブログ記事です。

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