誰にでもわかる大東亜戦争の真実

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 このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。

 世の中に出てしまっては東京裁判が成り立たなくなるとして、GHQ総司令官マッカーサーがやみに葬り去ってしまった「東條英機宣誓供述書」を解説しています。解説しながら、大東亜戦争が侵略戦争ではなかったという至極当たり前のことを証明しています。

 いったい、どの歴史真実をどう学んだら、あの戦争が「侵略戦争」などと言えるのでしょうか?私には皆目見当がつきません。太陽が東から出ることよりも当たり前なのです。あの戦争が侵略戦争などではなかったということは。

 今日から、日華基本条約と日満華共同宣言です。宣誓供述書の十七~十九です。今日の十七は重要な部分なので、東條英機の文をそのまま抜粋します。

「第二次近衛内閣において1940年(昭和十五年)十一月三十日、日華基本条約を締結し日満華共同宣言を発するに至りました事実を述べ、これが検察側の主張するような対支侵略戦争行為でなかったことを証明いたします。これは1940年(昭和十五年)十一月十三日の御前会議で決定せられた「支那事変処理要綱」に基づくのであります。何故にこの時かかる要綱を決定する必要があったかと申しますに、これより先、従前の政府も統帥部も支那事変の解決に全力を尽くしておりました。1940年三月には南京に新国民政府の遷都を見ました。これを承認しこれとの間に基本条約を締結するために前内閣時代より阿部信行大使はすでに支那に出発し、南京に滞在しておりましたが、南京との基本条約を締結する間に今一度重慶を含んだ前面平和の手を打って見るを適当と認めました。また当時既に支那事変も三年にわたり国防力の消耗がはなはだしからんとし、また米英の経済圧迫が益々強くなってきておるからわが国は国力の弾発性を回復する必要が痛感さられました。この支那事変処理要綱の骨子は、

(一)昭和十五年(1940年)十一月末を目途(もくと)として重慶政府に対する和平工作を促進する

(二)右不成立の場合においては長期持久の態勢に転移し帝国国防の弾発性を回復す

というのでありました」

 とにかく日本は支那事変を解決したくてしかたがなかったのです。それを英米、ロシアが邪魔をしたのです。こういう事実を日本人は知りましょう。

日本人はもうそろそろ目を覚ましましょう

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このページは、宝徳 健が2010年9月18日 12:38に書いたブログ記事です。

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