誰にでもわかる大東亜戦争の真実

| コメント(2) | トラックバック(0)
 このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。

 東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではなかったという、至極当たり前のことを証明しています。

 「日ソ中立条約と松岡外相の渡欧」です。「東條英機宣誓供述書」の二十~二十五に記述されています。

 前回は、この案件について、日本が進めようとしていた事柄と、東京裁判で検事が提出した資料がまったく食い違っていたことを説明しました。

 検察側の証言がなぜ違うか。その理由は・・・。

 松岡外相が渡欧したときは、当時日本として考えていたこととかなり異なり、ドイツとソ連の間はかなり緊張していて、ソ連と三国と同盟を結ぶなどということは不可能となったのです。また、ドイツは日本とソ連が中立条約を結ぶことを歓迎しない状態となりました。

 したがって、ドイツが斡旋するということはなくなりました。

 結局、四月十三日、松岡外相の帰途の間に中立条約は締結しましたが、その他にこの松岡外相の渡欧より生じた実質的の外交上の利益は何もありませんでした。松岡外相の渡欧は独伊に対してのまったく儀礼的なものであったことから何も政治的な効果もありませんでした。

 統帥に関することは初めから松岡外相に禁じたことであり、シンガポール攻撃その他に関する事項は何もなかったこと。

 東京裁判の検察が言うように、1941年(昭和十六年)二月上旬に日独の間に軍事的協議をしたという事実はないこと。

 この三つが、検察の出した資料にはあって、嘘の内容であることなのです。東京裁判はリンチです。反論の予知なき正義を振りかざして権利を行使するという人間として最も浅ましい行為です。

 それをやられたにすぎません。この事実だけを見ても、東京裁判がいかにくだらないことかがわかります。それを受け入れている今の日本は、一体何なのでしょうか?

 日ソ中立条約は、これらのことから、締結はしたものの、その後の日本の国策には大きな影響を持ちませんでした。また、日本の南方政策とは何の関係もありませんでした。この中立条約があるために、日本のソ連に備えた北方の兵備を軽くする効果もなかったのです。

 にもかかわらず、日本は収支この中立条約の条項を厳重に遵守し、その後の内閣もこの中立条約を守るように引きつがれ、独伊の要求があってもソ連に対して事を構えることは一度もしませんでした。

 結果はどうだったでしょうか。ソ連は一方的に、中立条約有効期間中でありながら、日本の領土を獲得する条件をもって攻め入りました。終戦も9月2日にしています。なぜなら、自分たちが攻め込んだことを正当化するためです。それを、私の大学のクラブの後輩、外務副大臣 武正公一は受け入れてしまったのです。本当に情けない後輩です。

 さあ、次回から、日米交渉に入ります。日本が侵略国家ではなかったことがわかってきましたか?

日本人は早く目を覚ましましょう

 みなさんは、ソ連が樺太に振興してきたときに、真岡の逓信局の女性たちが、最後の最後まで状況を打電して、「これが最後の電信です」と言って絶命した事件をご存知ですか?靖国神社の遊就館に行って見てください。涙が溢れてとまりません。日本はつらい国なのです。大国に挟まれう、資源もなく・・・。だから、人間を鍛えるしかない。なのに、戦後の誤った教育が・・・。

 大東亜戦争は侵略戦争ではありません。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/1710

コメント(2)

先日、「8月17日、ソ連軍上陸す」という本を読みました。
千島列島の”戦後”の話しでした。どこまで事実かわかりませんが、偏見や脚色のない真実を知ることは、仕事においても大事ですよね。誰が正しいかではなく、何が正しいか。
人の良い私は、すぐにだまされ、流されます、先生にも。(笑)

 ORKさん、コメント感謝します。そうだっけ? そんなに人が良かったっけ(笑)?それにしてはフィー交渉きつかったけど(笑)。
 まあ、今の教科書と朝日新聞に書いてあることと逆だったらたいてい真実です。
 日本は中国大陸と組もうとしたとき、たいていいいようにやられています。歴史上。この一年間民主党はそれをやろうとして、たった一年で、ここまで国をがたがたにした事実を見てもわかります。

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2010年10月 5日 00:04に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「和歌」です。

次のブログ記事は「叔父の死(10月4日の日誌)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。