このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。
東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではなかったという、至極当たり前のことを証明しています。
「暗礁に乗り上げた日米交渉」を解説しています。
今日は、東條英機宣誓供述書の二十七をそのまま抜粋します。
「この案(前回の日米了解案)を受け取った政府はただちに連絡会議を開きました。連絡会議の空気はこの案を見て今までの問題解決に一の曙光を認め、ある気軽さを感じました。何故かといえば、わが国は、当時支那事変の長期化に悩まされておりました。他方米英よりの引き続く経済圧迫に苦しんでおった折柄でありますから、この交渉でこれらの問題解決の端緒を開きたいと思ったからであります。米国側もわが国との国交調整により太平洋の平和維持の目的を達することができますから、これに相当熱意をもつものと見ておりました。米国側において当初から藁をも掴む心持でこれに臨みまた時間の猶予を稼ぐために交渉に当たるなどということは日本では夢想だにもしておらなかったのであります。連絡会議は爾来集会開会して最後に四月二十一日に態度の決定を見ました。当時は松岡外相は欧州より帰途大連まで着いておってその翌日には帰京する予定でありました。1941年(昭和十六年)四月二十一日の態度決定の要旨は、
一、この案の成立は三国同盟関係には幾分冷却の感を与えるけれども、これを忍んでこの線で進み すみやかに妥結を図ること。
二、わが国の立場としては次の基準で進むことすなわち
(イ)支那事変の迅速解決を図ること
(ロ)日本は必要かつ重要なる物資の供給を受けること
(ハ)三国同盟関係には多少の冷却感を与うることは可なるも明らかに信義に反することはこれを避けること
というのであります。わが方では原則論に重きをおかず、具体的問題の解決を重視したのであります。それはわが方には焦眉の急務たる支那事変解決と自存自給体制の確立という問題があるからでありました。
三国同盟条約との関係の解釈によってこの了解案の趣旨と調和を図りえるとの結論に達しておりました。日米交渉を独逸側に知らせるか否か、知らせるとすればその程度いかんということが一つの問題でありましたが、このことは外務大臣に一任するということになりました。以上の趣旨で連絡会議の決意に到達しましたからこれに基づきこの案を基礎として交渉を進むるに大体異存なき旨をただちに野村大使に電報しようということになりましたが、この点については外務次官も異存はない。ただ松岡外相が明日帰京するから華盛頓(ワシントン)への打電はその時まで保留するという申し出をなし会議はこれを承認し閉会したのでありました」
ということです。ここで、松岡外相がちょっとブレーキになります。
次回の内容を見たらアレッと思う人がたくさんいると思います。
それは、国内においては、米国の真意を見抜けなかったからなのです。米国は、とにかく、アジアに足場がほしい。そのために、米西戦争をわざわざ、アジアでやって、歴史には載っていないきたない手段でフィリピンを手に入れます。それもフィリピン人をだましてまで。
アジアの入り口であった日本が邪魔で仕方がなかったのです。だから、妥協に持っていきたいとする日本の考えを読んでいたのでした。次回をお楽しみに。
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