このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。
東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではなかったという、至極当たり前のことを証明しています。
今日から、「『対仏印泰施策要綱』二つの狙い」です。
東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではなかったという、至極当たり前のことを証明しています。
今日から、「『対仏印泰施策要綱』二つの狙い」です。
日米交渉から少し遡りますが、仏印と泰(タイ)との関係も日本政府は整理しています。
1941年(昭和十六年)一月三十日に大本営及び政府連絡会議において「対仏印泰施策要綱」というものを決定しています。この宣誓供述書では、1941年(昭和十六年)七月下旬の南部仏印心中については、これとは関係ないことを明記した上で、この要綱の解説に入っています。
この要綱は統帥部の提案であることが書いてあります。目的は、帝国の自存自衛のため仏印及び泰に対して軍事、政治、経済の緊密不離の関係を設定することでした。
(一)
日本は1940年(昭和十五年)六月十二日、日泰間の友好親和条約を締結し緊密化に努力してきたが、泰国内には、英国の勢力が強く存在している。
(二)
日本と仏印の間には松岡・アンリー協定の結果、表面は親善の関係にあり、なお日仏印の交渉も逐次具体化したが、仏印の内部には種々錯綜した事情があった。第一仏印にはヴイシー政権の勢力とドゴール派の勢力とが入乱していてフランス本国の降伏後、フランスの勢力が弱くなるにつれて、米・英の示唆により動くような事情も生じたたため、仏印政庁は日本に対して、反日の傾向を示し出した。
(三)
1940年(昭和十五年)十一月以来泰が仏印に対し失地回復の要求をしたことを発端に、泰・仏印間の国境紛争は1940年(昭和十六年)に至り逐次拡大し第三国の調停を要する状態となった。イギリスはこの調停をなすべく暗躍を始めたが、当時はイギリスとフランスとは国交断絶状態であったから、これは適当な資格者ではなかったこと。
(四)
東亜安定のため支那事変遂行中の日本はその自存自衛のためにも一刻も早く泰、仏印の平和を希望せざるを得なかったこと。
この四つが要綱を定めた理由となっていました。
次回は、この要綱の狙いを解説します。
1941年(昭和十六年)一月三十日に大本営及び政府連絡会議において「対仏印泰施策要綱」というものを決定しています。この宣誓供述書では、1941年(昭和十六年)七月下旬の南部仏印心中については、これとは関係ないことを明記した上で、この要綱の解説に入っています。
この要綱は統帥部の提案であることが書いてあります。目的は、帝国の自存自衛のため仏印及び泰に対して軍事、政治、経済の緊密不離の関係を設定することでした。
(一)
日本は1940年(昭和十五年)六月十二日、日泰間の友好親和条約を締結し緊密化に努力してきたが、泰国内には、英国の勢力が強く存在している。
(二)
日本と仏印の間には松岡・アンリー協定の結果、表面は親善の関係にあり、なお日仏印の交渉も逐次具体化したが、仏印の内部には種々錯綜した事情があった。第一仏印にはヴイシー政権の勢力とドゴール派の勢力とが入乱していてフランス本国の降伏後、フランスの勢力が弱くなるにつれて、米・英の示唆により動くような事情も生じたたため、仏印政庁は日本に対して、反日の傾向を示し出した。
(三)
1940年(昭和十五年)十一月以来泰が仏印に対し失地回復の要求をしたことを発端に、泰・仏印間の国境紛争は1940年(昭和十六年)に至り逐次拡大し第三国の調停を要する状態となった。イギリスはこの調停をなすべく暗躍を始めたが、当時はイギリスとフランスとは国交断絶状態であったから、これは適当な資格者ではなかったこと。
(四)
東亜安定のため支那事変遂行中の日本はその自存自衛のためにも一刻も早く泰、仏印の平和を希望せざるを得なかったこと。
この四つが要綱を定めた理由となっていました。
次回は、この要綱の狙いを解説します。
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