このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。
東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではなかったという、至極当たり前のことを証明しています。
今は、「南部仏印進駐問題」を解説しています。仏印とはベトナムあたりです。
TAM研修で、沖縄の方もこられています。昨日、食事をしながら、普天間のことを聞きました。もともと、あの地には何もないところで、米軍が基地を作ったから、その経済効果にあやかろうと、後から基地周辺にどんどんと人が住むようになったそうです。ですから、米軍から言わせると、「後から来た人たちがどきなさいよ」というのが本音だそうです。
また、基地に出て行かれると、困る人ばかりだそうです。まあ、住民の半分以上は、基地に賛成しているそうです。反対している人の何割かは、大地主だそうです。反対運動で騒ぐと、賃料があがるからだそうです。真に反対している人は、そんなにいないそうです。反対集会などは、地主の人が、本土からバイトをやとって人数を確保するそうです。
なんとまあ、社会党政党である民主党や、左派の片棒を担ぐマスコミの言うことを信じていたら、ほんとうに事はわかりませんね。
さて東條英機宣誓供述書は、前回のべた5つの理由について、ひとつずつ解説を加えています。まずは、米英側の重慶に対する支援の強化についてです。重慶とは蒋介石の軍のことです。
東條英機の得ていた情報をまず整理しています。
①1940年(昭和十五年)七月にはハル国務長官は英国のビルマルート経由援蒋物資禁止方につき反対の意見を表明していた。
②1940年(昭和十五年)十月にはルーズベルト大統領は、デイトンにおいて国防のため英国および重慶政権を援助する旨の演説をした。
③1940年(昭和十五年)十一月には米国は重慶政権に一億ドルの借款を供与する旨発表した。
④1940年(昭和十五年)十二月二十九日にはルーズベルト大統領は三国同盟の排撃ならびに民主主義国家のため米国を兵器廠と化する旨の談話を放送した。
⑤1940年(昭和十五年)十二月三十日には、モーゲンソー財務長官は重慶およびギリシャに武器貸与の用意ある旨を演説した。1941年(昭和十六年)に入り、この種の発表はその数を加えますます露骨となった)。
⑥1941年(昭和十六年)五月、クラケット准将一行は蒋軍援助のため重慶に到着した。
⑦1941年(昭和十六年)二月にはノックス海軍長官は、重慶政府は米国飛行機二百台購入の手続きをした旨を発表した。
⑧同海軍長官は1941年(昭和十六年)五月には中立法に反対の旨を表明した。
⑨その翌日にはスチムソン陸軍長官も同様の声明をした。
このような情勢においては、支那事変の迅速解決をいくら日本が望んでも無理です。日本はしかたなしに、仏印から支那に圧力をかけ、米国と蒋介石の分断を図ったのでした。
繰り返しますが、アジアへの進出が遅れた米国は、かなりあせっていました。米西戦争によりスペインをだまし討ちにしてフィリピンを手に入れたのもそうです。あとは、日本を戦争に引きずり込み、アジアへの覇権を望みました。結果的には、共産主義の総本山モスクワコミンテルンであるソ連とその手先である毛沢東に共産主義を持ち込まれうまく行きませんでしたが。
今、学校の教科書では日中戦争となっているそうですね。正しくありません。支那事変です。中立法があった、米国は、戦争としてしまうと、大儀がたたないので、あくまでも、事変としていました。太平洋戦争という言葉もありませんでした。
このふたつをとるだけでも、戦後の教育が正しい歴史を教えていないことがわかります。ましてや、この供述書を読むと、侵略戦争でないことなど明白です。
日本人は早く目を覚ましましょう
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