誰にでもわかる大東亜戦争の真実

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 このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。  東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではなかったという、至極当たり前のことを証明しています。

 今日から「政府は独ソ戦をいかに判断したか」です。
 日本政府が独ソ開戦を確定的に知ったのは。1941年(昭和十六年)六月二十二日でした。この日、大島駐独大使より公電がありました。ただちに、政府および統帥部の連絡会議を開き、日本のとるべき態度について十分協議をしました。そして、同月三十日に、方向性を決め、七月二日の御前会議にて決定しました。

 独ソ開戦の風説は1941年(昭和十六年)四月下旬頃よりすでに各方面より伝わっていました。同年六月六日頃、ヒトラー総統と大島大使の会見の電報がありました。これによればドイツは、ソ連に対する戦争を考えているらしいということでした。しかし、ヒトラーは、日本のこれへの参加希望の意は表明しませんでしたが、内心これを望んでいる様子であるとのことでした。これに関し、ただちに連絡会議を開きましたが、当時の統帥部の判断も、欧州より帰ったばかりの松岡外相の報告も、独ソ開戦を信じず、独ソ両国関係がそうまで逼迫しているとみていませんでした。

 モスクワの駐在建川大使よりの報道も、独ソの関係は相当急迫しているが、開戦までには至らないだろうという見解でした。日本としては、最初からソ連を三国側に同調せしめんとし、独ソ開戦を希望しない立場でした。したがって、自然と希望的判断に陥り、ドイツの言い分は英国本土上陸を偽装する一つの手段なるべしとみたのでした。

 したがって、この事態に対する政策を決定せず、「成り行きを注意する」という判断でした。

 六月十二日頃、たまたま日ソ通商協定仮調印が成立し、またその頃ノモンハンの境界確定の手続きも好都合に進行しつつありました。すなわちこれらソ連の態度の軟化には幾分疑惑を持たないまでもなかったのですが、日本は希望的観測を持ってしまいました。

 ここからは私の意見です。

 ソ連は、こういう状況においても、日本攻撃の準備を着々と進めていました。それが、将来のノモンハン事件につながりました。ノモンハンで日本軍に破れ、戦後千島列島でも日本軍に破れ、くやしまぎれに、シベリアへ日本人60万人を抑留したのです。

 この東條英機宣誓供述書は、超一級品の歴史書ですね。なぜ、マスコミはこれを報道しないのだろうか? 大東亜戦争は侵略戦争ではありません。

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このページは、宝徳 健が2010年12月 5日 00:04に書いたブログ記事です。

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