このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。 東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではなかったという、至極当たり前のことを証明しています。
「政府は独ソ戦をいかに判断したか」の部分を解説しています。
独ソ戦において、日本政府が判断した事項の(a)~(f)までを紹介しています。前回は(a)でした。続きを紹介します。「供述書」の文をそのまま抜粋しています。いかに日本が戦争をしたくなかったかということが明確に理解できます。ぎりぎりまで、戦争を回避する努力をしています。大東亜戦争は侵略戦争ではありません。どこをどう勉強したらあの戦争が侵略戦争になるのでしょうか??? 誰か私に教えてください。
(b)独ソ戦の開始に伴いて、日ソ中立条約にいかなる関係を及ぼすか、このことについては、三国同盟第五条により、独ソ戦は日ソ中立関係には法的になんら関係あるものではなく、日本は中立条約を維持し「北方の静謐」を守り得るものと考えました。
(c)独ソ開戦が日米交渉に及ぼす影響いかん-1941年(昭和十六年)六月二十一日の米国の提案を見るに、独ソ開戦後米国のわが方に対する態度は硬化したものと考えられました。しかし日本としては、支那事変を解決するという目的よりいうも南方の情勢を緩和するの必要からいうも、更にまた欧州戦争の東亜波及を防止するの観点からいうも日米の交渉は極力これを成立せしめることに努力せねばならぬという結論に達しました。
(d)南方における米英蘭の脅威とその程度ならびに南方施策の再確認-六月二十五日決定の南方施策促進に関する件の決定に付き前に述べたるごとく、その後のこの方面の状況少しも緩和を見ず、極力外交によって打開しようと考えましたが、米英の対日圧迫態度はますます強化さえられる。もしかくのごとき圧迫態度が更に強化せられ、米英蘭があくまで帝国の仏印および泰に対する施策を妨害し、これが打開の途なきときはついには対米英戦争にたちいたることなきを保しがたし。ここにおいてわが国は最悪の場合にはわが国の自存の途をして講ずる唯一の途として対米英戦をも辞せざる覚悟をもってその防衛的準備を整へ仏印泰に対する施策を完備する方針の再確認は必要であるとせられました。
次回(e)(f)を紹介します。
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