このシリーズは右のカテゴリー「和歌」に格納されています。
道元の和歌を紹介します。
谿(たに)にひびき 峰に鳴く猿 たえだえに ただ此の経を 説くとこそ聞け
「谿にひびきがある。峰に猿が鳴いている。谿の水音も、途切れ途切れの猿の声までも、まるで
法華経をお説きになっている釈尊のお声のように聞こえてくるではないか」
和歌の係り結びという語法です。係り助詞に強調の「こそ」を用いるとき、同志は已然形(いぜんけい)で受け結びます。なので、動詞「聞く」の已然形「聞け」は、第三者に対して「聞きなさい」と言っているのではありません。谿のひびき・猿の鳴き声を霊妙不思議な仏の声と聞いているのは、道元自身です。
道元は、村上源氏の家計に藤原氏北家(ほっけ)の血をも引いて正治二年(1200年)に生まれました。
今日の和歌は、比叡山での修行時代に詠われたものと言われています。平安の律令が崩壊し、鎌倉に移る、日本の過渡期に道元は生まれ育ちました。
道元は、支那の南宋に渡り、丸四年の仏修行をして、日本に帰ってきました。二十四歳で支那に行って、二十八歳で帰国しました。
日本に帰ったばかりに道元は、「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」という小冊子を著作しています。坐禅の勧めというところでしょうか。その中に、次のような文があります。
「回光返照(えこうへんしょう)の退歩を学ぶべし。自然(じねん)に身心脱落(しんじんだつらく)して、本来の面目眼前せん」
道元の思想の柱です。「回光返照」とは「自己の心の光を自己に回(めぐ)らせて自己を照明すること、すなわち自己反省」であり、「本来の面目」とは「自己の本来の姿、自己の実相」です。こういう気持ちで坐禅をしなさいということになるのでしょう。
道元の著作「正法眼蔵」は何度も挑戦していますが、どうしても読みきれません。私の心がまだそこまでいっていないのでしょう。でも、繰り返し挑戦していると、少しずつわかってくるところが出てきています。ライフワークの一つですね。
あっ、そうだ。話はまったく別ですが、「支那」という言葉を私が使うと、「差別用語ではないか」という人がいます。それは、支那と言う言葉を使うなと言う中共と、中共の日本支店、朝日新聞に思想の刷り込みをされている人です。事実を知ってから言いましょう。
支那という言葉は、江戸時代、王朝の名前はあっても、国の名前が無かったあの国に新井白石がつけてあげた名前です。確か、欧米人が「チーナ」と発音しているのを「支那」としたんだと記憶しています。支那は、大東亜戦争が終わるまで、国家という概念がなかったのです。せっかくつけてあげたのに、支那に文句言われてもしょうがないですよね? どこが差別用語??? 戦前、日本が使っていたというだけで、こうなってしまうのです。
あっ、そうだ。これも、知っていますか? 遣隋使とか遣唐使とか勉強しましたよね? 日本から支那に行く留学生です。ほとんどの人が知らないのですが、支那から日本に来る支日使(こんな言葉はありませんが)は、日本から支那に行く留学生の何倍もいたそうです。日本からの遣隋使・遣唐使は、ほとんど日本に帰ってきましたが、支那から日本へ来た留学生は、ほとんど支那へは帰らなかったそうです。こんなことが表に出ると、また支那と朝日新聞が「そんなことはない」と騒ぎそうですが(笑)。
では、拙首です。
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