このシリーズは右のカテゴリー「和歌」に格納されています。
道元の和歌を紹介します。道元は、日本における曹洞宗の始祖です。
尋ね入る 深山(みやま)の奥の 里ぞもと わがすみなれし 都なりけり
道元は支那の南宋で学びます。師を求めて、彷徨します。天童山の禅師如浄(にょじょう)に出会います。道元は、この人こそ真の師ではなかろうかと思います。如浄も、道元の器量を見抜きます。
如浄は道元に言います。「なんじは、これ後生といえども、すこぶる古貌(こぼう)あり。直ちに須(すべから)く深山幽谷に居して、仏祖釈尊の正法を修養すべし。必ずや古徳たちと同じ悟りの境地に至らん」(君は年は若いが古徳を思わせる風貌だ。日本に帰ったら、市外には出ず、山にこもって修行するのだよ)
仏教では、心の善な働きを失わせてしまう煩悩は「蓋(がい)」と呼ばれています。五蓋というのがあります。「貪欲(どんよく)・瞋恚(しんい)・惛眠(こんみん)・掉悔(じょうげ)・疑」です。貪欲と疑は、いいですよね。
瞋恚蓋(しんいがい)とは、怒りやすく怨みがちになること、惛眠蓋(こんみんがい)とは、頭の中がぼんやりした状態になること、掉悔蓋(じょうげがい)とは落ち着きを欠き悔やみがちになること。如浄は、この五蓋を包み込んでさらに、もっと厄介な蓋、森羅万象をありのままに見ようとしない無明蓋(むみょうがい)があると説きました。五蓋に加えて六蓋です。道元はその言葉にはじめて触れました。
道元「その五蓋・無明蓋を取り除く秘術がありましょうか」
如浄「そなたがこれまで行ってきた坐禅はなんだったのか。只管打坐(しかんたざ)、ただひたすらに坐禅をし、身心脱落、身も心も一切の束縛から離脱する。六蓋を離れるにはこれ以外に方法は無い」
こののち、道元が、如浄から授戒を受けました。そのとき、如浄は、「曹洞の宗旨を託するところ、なんじすなわちその人なり」と言いました。日本における曹洞宗の始まりです。あ~、だから曹洞宗は只管打坐なんだ~。だから坐禅なんだ~。
その頃支那は、モンゴルの侵略にさらされはじめていました(後の元)。如浄は、国家が滅亡し、禅が弾圧されるのを予見して、道元に、日本での曹洞宗を起こすことを求めたのでした。
なんかいいですよね。歴史を知るっていいですよね。自分の小ささがわかりますよね。人間ってむちゃくちゃ残酷な存在なのに、一方で、素敵な存在ですね。
息子が小さい頃、「お父さん、なぜ、お釈迦様は蓮の花にお座りになられているの?」と聞きました。
蓮は、泥沼に咲きます。世の中という泥沼の中に、あんなにきれいな花が咲く。仏教が難しくても、これは子供にもわかります。でも・・・・・。自分はまだ泥沼の中・・・。
では、拙首です。
書を読みて 知れば知るほど 自らの 未熟に気づく これからもまだ
コメントする