誰にでもわかる大東亜戦争の真実

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 このシリーズは右のカテゴリー「日本の正しい歴史」に格納されています。  東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではな かったという、至極当たり前のことを証明しています。

 今日から「東條内閣の組閣」です。ここも長い。七十八~九十までです。まあ、ここまで来たのだから、ゆっくりお付き合いください。少しずつね。

 歴史解説は昨日の続きです。
七十八
 1941年(昭和十六年)十月十七日には前日来辞職願を出したためこの日私は官邸にてその引払いの準備をいたしておりました。午後三時三十分頃侍従長より天皇陛下の御召によりただちに参内すべしとの通知を受けました。突然の御召のことではありますから私は何か総辞職に関し私の初心を質されるものであろうと直感し、奉答のために書類を懐にして参内しました。

【解説】
 支那情勢でしたね。支那の勝手ばらばらな軍隊が自国民、特に農民をどれだけ虐げたかです。
 支那事変が始まりました。日本軍の進撃を阻止したい支那軍は、農村の灌漑施設を破壊し、軍を養うため作物や家畜を収奪しました。さらに「拉夫(らーふー)」という強制連行によって農村から労働力を奪いました。共産軍も食糧需給秩序のかく乱に狂奔しました。つまり、重慶政府も共産ゲリラも、国家防衛を口にしながら、相変わらず農民の生活と生命には無関心だったのです。

 重慶政府(蒋介石)は、前線将兵からの食糧供給要請に「農民から徴発せよ」と答えています。日本軍の進撃を防ぐために、自らは戦うこともなく、黄河を決壊させ十一の都市と四千の村を水没させる、およそ信じられない所業も平然と行いました。

 日本軍は、略奪どころか逆に、生産計画を立て、生産を指導・支援し、地主に過度な年貢をやめさせ、匪賊の襲来から農民を守りました。食料の確保と農民の救援に日本軍は躍起になったのです。

 そればかりではありません。植林を行い、電力を供給し、文化指導を行い、学校や病院を建て、医療人材の育成にも力を注ぎました。また、鉄道、道路、港湾建設などのほか、華北・華中の産業開発も進めました。

 ここはとても重要なので、続きはまた明日。少しずつ書きます。とにかく、当時、日本軍が進駐すると、支那の民衆は旗を振って歓迎したのです。自国の軍隊とは比べ物にならないくらい素晴らしいからです。これで「日本は戦争で中国に迷惑をかけた」ですって。まあ、それが支那人ですけどね。

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このページは、宝徳 健が2011年2月24日 00:06に書いたブログ記事です。

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