出光佐三語録

| コメント(0) | トラックバック(0)
 このシリーズは右のカテゴリー「出光理念の検証」に格納されています。

 弊社の月刊誌、「士魂商才」の新しい読者の方々がとても増えてきました。そこでバックナンバーを読まれていない方のために、昨日から、いろいろな記事の過去の物を掲載し始めています。まずは、「出光佐三語録」。少しずつ紹介します。「出光佐三語録 PHP研究所」です。今はもう絶版だと思います。士魂商才第三十二号 平成二十二年五月号掲載分です。

一章 独立

  ―働いて、自分に薄く、その余力をもって人のために尽くせ

 

働いて、自分に薄く、その余力をもって人のために尽くせ。

 

 私の家庭も醇風美俗の地方風の影響を受けて、よい家庭でした。私の父は私に「働け、働け」といって、怠けたら非常にしかられた。「働け、そして質素にせよ。ぜいたくをするな。働いて、自分に薄く、その余力をもって人のために尽くせ」といわれた。この父の教えが、私の会社のいまのあり方になっているのです。一生懸命働いて、経費の面でも徹底的に合理化して、消費者のために尽くすという私の会社のあり方は、私の両親の教えから生まれておると思うのです。(『我が六十年間』第三巻から)

                                                              

 出光佐三は、明治十八年の八月二十二日に、福岡県宗像郡赤間村に生まれている。父を藤六、母を千代といい、兄一人、姉一人を含む八人兄妹の三番目であった。

 遠祖は大分県の宇佐八幡宮の大宮司だったといわれるが、佐三が知ったころには、赤間在で代々、藍玉屋であった。徳島から藍玉を仕入れてきて、久留米絣の久留米や、博多織の福岡周辺や、その他近郷近在に売りさばくのである。祖父の代までは裕福で、近在の長者番付などに載っていたが、父の代の中ごろから、没落が始まった。

 というのは、そのころドイツで、藍玉に代わる人造染料『インジゴ』の合成が成功、やがて工場生産に入ったからである。工場生産の始まりが明治三十年で、その影響は、福岡へは三十四、五年ごろから徐々に現われ、佐三の成人期の三十八年から四十年ごろには、怒涛のように『人造染料時代』が来てしまうのである。

 そんなことには一切関係なく、佐三は土地の小学校の高等科を経て、福岡商業に進学した。

 佐三は、幼少時代から虚弱で、特に目が悪かった。そのために、或る年には、学校へはろくに出ないという年もあった。そのうえ、進学について父親ともめたので、商業高校入学は、順調に行った高等科卒業生よりさらに二年も遅れてしまった。

 そんな具合にいえば、藤六には父親としての値打ちがあまりなかったように聞こえるが、そうではなかった。地方実業家に似げなく書画を愛し、またこれをよくした。俳諧の道にも造詣が深かった。佐三が後に仙厓の書画を熱愛するようになったのも、その始まりは父親の影響であった。時勢のせいで自分は没落したものの、佐三たちには「働け働け」といい、学業の余暇には、よく、カケ取りなどに行かせた。

 佐三はともかく、三十四年には福商に入学した。家業の関係からか、紺屋の二階に下宿しての通学であった。

目が悪いので、本はあまり読まない。つまり、あまり勉強はしなかった。「その代わり、徹底的に考えた」と本人はいうが、よそ目には、筑前琵琶を"びゅんびゅん"鳴らして、弾いているばかりだったという。それでも同級生五十九人中で、一年の時が二番、二年が一番、三年、四年が三番だったというから、持って生まれた頭のよさがあったのだろう。

福商は四年制なので、三十八年の三月に卒業だったが、成績がトップ・クラスなのに、優等卒業生の名簿の中には加えられなかった。それにはややこしい経緯があるが、先を急ぐので簡単に述べると、卒業記念の修学旅行問題で学校側ともめて、佐三たちは生徒ばかりで『八幡製鉄見学旅行』というのを決行した。それがとがめられて、「あわやストライキ」というところまで行ったが、時の福岡市会議長が調停に立って、全員が或る程度の懲罰を受けることで落着した。

そうしてやっと卒業できたが、佐三はスト騒ぎの首謀者とみられて、おかげで『優等賞』がパアであった。パアはパアとして、佐三の方も母校は母校ながら、後に卒業する神戸高商と違って、福岡商業は少しも懐かしがっていない。普段は批評はさし控えていたが、卒業後五・六十年も経った昭和三十七年になって、ふと寸言を漏らしている。

「神戸高商の水島校長はすばらしい人で、先生たちを弟の如く、学生を子供の如く、温情家族主義で人間を育てるやり方だった。一人一人から話を聞き、叱るべきは叱り、諭すべきは諭し、そりゃよく世話を見られたもんじゃが......福岡商業は、まるで逆じゃったもんね」

次いで四十一年夏、親しい人にいった。

「私は、福商では、『ヤンキー』といわれたもんね。私は私なりに、外国の個人主義には批判を持っていたが、そんな私がヤンキーといわれたのは、一方では日本の封建の遺風についても反発を感じ、批判を持っていたからだろう。私は、日本と外国との長所、短所を、私なりに理解しているつもりだったのだが......」

ことほどさように、当時の福岡商業の気風は、封建的、官僚的、非家族的だったのだろう。

さて、こうして佐三は神戸高商の入試を受けるのだが、それがまた『出光式』というか何というか、殆ど類例のない式のものであった。

入試に行くに際して、布団をはじめ身の回り品一切を神戸に送ってしまったのである。

「四倍強もの競争率だというのに、もし落ちたら......?」そんなことは一切考えなかったらしい。

 落ちたら、どういって笑われただろう?もっとも、落ちても、港のある、世界に開いているこの町に居ついて、それなりの方針を立てるつもりだったのかも知れないが......ともあれ、うまく合格して入学した。

肉親と変わらぬ水島先生の情愛

神戸の高商にはいって、学窓から大阪の金万能の世相を見て、黄金の奴隷になるな、社会は人間が中心である、というような考えを持つに至った。私が『人間尊重』ということを言うようになったのは、この恵みである。

この学校は水島銕也先生が初代の校長であった。先生は東京高商(現在の一橋大学)を出て横浜正金銀行にはいられて、その後、病を得られて教育界にはいられた人であるために、人情の機微を理解された名校長であった。私は第三回の卒業生であるから、水島先生によって育てられたようなものである。先生は若い教授や生徒を肉親のように愛撫された。学生の一人一人に面接され、自宅に招いては家庭の事情から本人の性格、就職の希望などを聴かれ、自ら一人一人就職の世話をされた。就職後も自宅に呼びよせて、いろいろと配慮され、実際の肉親と変わらない情愛を示された。(中略)私の会社で、愛によって社員を育てるとか、人間尊重とかいっているのも、もとをたどれば学生時代に種をまかれたものである。(『我が六十年間』第二巻より)

                                                              

 その神戸高商に、校長の水島銕也がいたのである。そして出光は、彼によってその生涯を決定するような、感化影響を与えられたのである。

 ごく簡単にだが、水島に触れておく。

 水島は、大分県中津の人で、郷里では蘭学の祖の一人である前野良沢と、福沢諭吉と、それに水島銕也の三人を挙げて、『中津が生んだ三巨人』としている。ちなみに福沢と水島の父とは親しい友人であった。

 水島は名校長の名が高かった。東京高商の出身で、四十歳の時に、母校の教授から、創立されたばかりの神戸高商の校長に転じて来たものであった。まだ創立早々といってよく、出光は、その第三回目の入学であった。

 当時は日露戦争の余波で、日本には成金的な気風があった。特に大阪、神戸といったいわゆる関西地方では、黄金万能の風潮が強かった。

 これに、水島は反発して、『人間尊重』を説き、『愛』を説いた。実業人の心構えとして、『士魂商才』を力説してやまなかった。実業に進むならば、黄金の尊ぶべきはもちろんだが、決して黄金の奴隷になってはならないと教えた。

 水島は、面倒見がよかった。卒業前には、一人一人の学生に面接してその志望を聞き、それが叶うように尽力を惜しまなかった。卒業後も、折に触れては激励や助言の手紙を送った。

 水島の感化が強烈だった一因は、当時は学園の規模がさのみ大きくなくて、出光の学年にしても、卒業時に百七人であった。全校で三、四百人そこそこの学生数だから、教師にしても、かゆいところに手が届くわけで、水島にしても、出光の『すぐ目の前』にいたわけである。呼ぶまでもなく、ちょっとの合図で答える近さであった。今日の何千何万人といて、学長なんてものは遥か雲の彼方といったマンモス学園とは同日の談でなかっただろう。

 出光は、その水島に師事し心酔し、深い感化を受けた。『士魂商才』こそわが進むべき大道と、心に銘じた。

 講義の中で感銘の深かったのは、内池廉吉教授の『商業概論』であった。

「商売は金儲けではない」といって、

「ただ物を動かして、中間に立って利鞘を取るだけの商人は、今後、不要になる」

「生産者と消費者の中間に立って、これを直結して双方の利益を考える、配給者としての商人だけが残る」

と、商業の社会性を説いた。感銘を受けた佐三は、後にこれを演繹して『大地域小売り業』といって、多数の支店を抱えて、広い地域にわたる小売業を営むことを実践する。

 家業は破産に瀕していたけれど、そんなことは知らされない佐三の神戸での学生生活は、まず安穏であった。

 現在の新幹線新神戸駅に程近い、布引の滝の近くの、家業で懇意だった家に下宿する。

 高商には『友団』という組織があり、同じ県出身の者が同じグループを作る習慣があった。佐三たちの福岡の友団には、三級下に久留米商業出身の石井光次郎などがいた。後の衆議院議長である。

 佐三も田舎者だったが、石井も変わりがなかった。

 上級生の佐三から、よくミルクホールでコーヒーのご馳走にあずかったが、匙で一匙一匙すくって飲むので、佐三から

「おい君、ガブガブ飲んでいいんだぞ。みっともない、匙ですくったりするなよ」

と注意されたりした。

 そのうちに、佐三には実家の困窮ぶりが次第に判ってきた。化学染料の普及で、『藍玉業』なんてものは日一日と時代遅れになり、家業が没落に瀕していることが何となく判ってきた。

「何か、アルバイトをしなければ・・・」

 当時はむろん、アルバイトなんて言葉はなかったが、何か『仕事』をしなければ、のうのうと学校に通っているわけにはいかないと、知れてきたのであった。

 佐三の下宿の近くに、『橋本病院』というのがあった。佐三をはじめ学生たちも、風邪をひいたりするとよくお世話になっていた。

 その橋本病院へ、淡路島の日田重太郎という人物が、よく出入りしていた。橋本病院の親戚で、淡路では名だたる名家であり、分限者だということであった。神戸にも別宅があって、そこで中学受験の長男といっしょに暮らしていた。

 佐三は、橋本病院へ出入りするうちに、その『日田』なる人物とも親しくなり、ついに見込まれて、子供の家庭教師を頼まれるようになった。また、そうして家庭教師をするうちに、日田とはいっそう親しくなっていった。そのうちに、卒業が迫ってきた。

 出光は、卒業論文のテーマとして、『筑豊炭田』に着目した。出光の郷里宗像のすぐ背後地が、筑豊炭田であり、そんな土地の近さが、出光の興味を呼んだものであった。

 

石炭業、石油業、相助けて日本の工業発展に資すべし。

 

(重油ト石炭ヲ比較スルニ)種々ナル点ニ於テ重油ノ石炭ニ勝レルヲ発見シタリ。今ヤ世人モ一般ニ之を認メ・・・・・・現状トシテ採炭業は其ノ旺盛時代ニアルニ反シ、石油業ハ未ダ以テ其ノ発達大ナラズ・・・・・・両者相寄リ相助ケテ我国工業ノ進歩、文明ノ発達ニ資スベキモノナリ。(明治四十二年三月、神戸高等商業学校の出光佐三の卒業論文より)        

 ひいてはこれが、出光と『石油』との、歴史的な『出会い』となるのだが、その時に直接取り上げたのは、『石炭』であった。出光は、まず当時の石炭業者の驕倣ぶりから筆を起こして、石炭業そのものの二つの弱点をあげる。

 その一は、埋蔵量に限りがあること。しかも坑道が深くなれば、それだけ経費がかかり、国際競争力が低下する。かくて日本国内の炭業は否応なく斜陽化する。

 その二は、経営の体質である。収益を湯水の如く浪費して恥じない。経営者がそうなら、労働者も刹那的である。悲劇的な成り行きを防ぐためには、鉱区の合同や共同販売組織の結成、また従業員の老後のための保険制度など必要であるが、そのような努力が多くなされているとはいい難い。

 また、『石炭大艦隊』と『石油大艦隊』との遭遇戦を考えてみると、石炭の艦隊は、その『煙』によって、より早く敵から発見される。また逆に、その煙に妨げられて、敵がよく見えず、照準が定め難い。よって射撃に難点を生じる。こんなことが重なって、『石炭』の艦隊は不利を生じる。(余談だが、この同じ時代に、同じ理由で艦隊の『石油化』を考えたイギリスのチャーチルは、イランの石油利権に英国政府の資本を入れてこれを支配下に置き、潜在的な艦隊能力比においてドイツより優位に立つことに成功した)。

 けれども、石油業はまだまだそれほど振興されていなかったので、佐三の論文も資料の入手に難渋するが・・・・・・ともかく佐三は、手に入る限りのデータから、石炭と新興の石油が競い合う有力市場は、大連と上海であろうと推論する。―以上がこの論文の要旨であった。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/2132

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2011年2月24日 00:21に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「誰にでもわかる大東亜戦争の真実」です。

次のブログ記事は「税制改正:減価償却制度の縮減(2月23日の日誌)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。