出光佐三語録

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 このシリーズは右のカテゴリー「出光理念の検証」に格納されています。

 弊社の月刊誌、「士魂商才」の新しい読者の方々がとても増えてきました。そこでバックナンバーを読まれていない方のために、昨日から、いろいろな記事の過去の物を掲載し始めています。まずは、「出光佐三語録」。少しずつ紹介します。「出光佐三語録 PHP研究所」です。今はもう絶版だと思います。士魂商才第三十四号 平成二十二年七月号の記事です。第ニ章に入ります。

 

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 シリーズで、「ペルシャ湾上の日章丸」を掲載していきます。掲載する都度お知らせします。今回は、士魂商才第三十ニ号 平成二十二年五月号に掲載した記事をアップしました。

章 苦闘

  ―「石の上にも三年」を唯一の頼りとして奮闘した

 

母親の誕生日に開店

 

 日田といっしょに京都の登記所へ行って、登記を済ませて六千円を受け取った出光は、すぐ汽車に乗って門司に行って、店を探した。

 門司は九州北端の町で、本州西端の下関と向かい合って、中間に『門司港』を形成している。

 明治初年までは、戸数五百ほどのうらぶれた漁村にすぎなかった門司は、同二十年ごろから始められた築堤工事と、二十四年に開通した、門司港駅を始点とする九州鉄道(のち国鉄)のおかげで、忽ち北九州最大の海陸交通の要衝となった。

 やがて下関港とともに、米麦や石炭の特別輸出港としての指定を受け、筑豊炭田の発展とともにブームを招来した。三井や三菱をはじめ日本の代表的な資本が、狭い門司へと集中的な進出を始め、三十一年には、日本銀行までが支店を置くようになり、三十二年の四月には、北九州のトップを切って早くも市制を布いている。この年(明治四十四年)の春からは、ずっと西の八幡、小倉の方から伸びて来た九州電気軌道(のちの西鉄)の電車が開通して、山が海際まで迫っていて極めて狭く細長い門司の海岸通りの繁華街を、縫うようにして走っている。

 活気に溢れる市であった。港も町も、そうであった。佐三はここに、腰を据えることにした。

 その電車の終点に近い、鎮西橋停留場と東本町停留場の中ほどのところに、佐三は事務所を借り受けた。二階建てのしもた屋の前半分だけである。周りには中央の有限会社の支店とか、洋館風の建物が散在しており、公衆電話のボックスも目についた。

 階下は洋風にしつらえて、机や椅子を入れて事務所にした。神戸高商の水島校長に書いてもらった『士魂商才』の額を掛けた。二階は店主の佐三をはじめ、従業員たちの宿舎である。

 その従業員だが、番頭格は井上庄次郎といって、生ッ粋の博多弁を使う四十男であった。父藤六の友人で、元三井物産の支店員とかいうことであった。これは通いで、住み込んではいない。

 住み込んでいるのは、寮母代わりにやってきた佐三の妹のタマと、丁稚として入店した弟の泰亮と、それに小学校を出たばかりで雇った二人の丁稚少年であった。タマは佐三よりは三つ年下の二十二歳で、佐三はじめ一同の身の回りの面倒を見る。泰亮は佐三よりも十一年下で、高等小学校を出たばかりのおとなしい少年であった。

 悪天続きだったが、梅雨の晴れ間を待ちかねるようにして六月二十日に店開きした。実は、晴れ間を待ったのでなく、その日が母親の誕生日なので、親孝行な佐三は、誰にもいわずにその日を待ちわびたわけであった。

 

「石の上にも三年」を唯一の頼りとして奮闘した。

 

 創業に際し、(中略)内池先生より示唆されたる、『生産者より消費者へ』の方針に準拠しようと考えたのであります。生産業は各方面に勃興し、地方消費も多方面となり、次第に社会が複雑化するに従い、両者の中間に立って相互の利便を計る機関は、社会構成に絶対必要なる事業でありまして、社会と共に永久であると云う信念を持ったのであります。

 (しかるに)総ては見込違いでありました。電機の発達によりまして、機械油の消費は逓減の歩調を辿って居ました。無経験の青二歳の想像も付かない難事業でありました。斯業の先輩は親切に『開店中止』を勧めました。(中略)

 先輩の一人からは「君が今日礦油の販売に成功するならば、如何なる難事業をも成し得ると云う、一つの試金石の積りでやり給え」と宣告されました。私は水島先生の卒業式の告辞「石の上にも三年」を唯一の頼りとして奮闘しました。三年は瞬く間に過ぎましたが、行路は年と共に艱難を加えて来るのみでありました。(昭和十五年九月、『紀元二千六百年を迎えて店員諸君と共に』より)

                                                                   

 朝一番の門司港駅発の列車に乗って、佐三と井上の二人は、小さなカバンに見本の油の壜をおさめて、筑豊の炭田地帯へ通った。カンカン照りの夏の日をくたくたになるまで歩き回ったが、『機械油』は一向に売れなかった。

 枕木伝いに線路を歩いて、各炭坑の事務所を回るのだが、新米の油屋などはどこでも相手にされなかった。みな、古い馴染みの店がある。

「間に合ってるよ」

気風の荒い炭坑事務所で、たいてい玄関払いであった。どうにか事務所の中に立ち入れても、佐三の端正な風貌とか、またどことないインテリ臭さなどが、忽ち事務所の衆から毛嫌いされる。

佐三は中肉中背で、痩せぎすであった。眼窩の引っ込んだいわゆる『奥眼』で、それに楕円形のやや小型の銀縁の眼鏡をかけている。かなり日本人ばなれした風貌であった。

炭坑の購買係などみな叩き上げで、佐三が学校出だなと判ったりすると、もう相手にしてもらえない。自分では語らなくても、ついポケットに差している経済誌の一冊などが、身元を明かしてしまうのだ。

炭車の車軸油、グリース、機械にさすシリンダー油と、どれ一つ売れない。赤池、金田、小竹、方域、田川、直方と......毎日毎日歩き回るのだけれど、靴の底が減るばかりだ。

「どうだ、売れたかね?」

「いや、全く売れまっせん」

 井上と顔を合わせると、ため息ばかりであった。

 一年ばかり筑豊を歩きに歩いて......そこで獲得したのが二つ三つの小さな炭坑の注文ばかりで......歩き疲れて方向転換してみたのが、戸畑の『明治紡績』という工場であった。

 そこで初めて、工場長の安川清三郎以下に認められて、佐三は工場へ潤滑油を入れることになる。明治紡でもそれまでは、汽缶室の大きな機械にさすのも、精紡器のスピンドルにさすのも、同じ油であった。

「不合理じゃないですか?」

 佐三は指摘して、重い機械の潤滑油、軽い機械の潤滑油と区別して、調合を始めた。この時代には、機械油の代理店なんかは、親会社から下りてきた商品をそのままに、何の手も加えないでお得意へ納めるのが一般であった。それを誰も怪しまなかった。

 佐三は、『一般』とは違う努力をしたのであった。それは或いは、子供のころ、父の藤六が藍玉を納めるについて、納品先の製造する品物に合わせて、色彩の濃淡その他の工夫をしていたのを、その目で見てきたせいかも知れなかった。「注文に応じて手を入れるのだ」親会社からの品物を、そのまま納めないのが、佐三の『常識』だったのかも知れない。

 このとき、さまざまの努力をして油の調合をした経験が、後に佐三が『浮くか沈むか』の大転機に立った時に、大きく役立つのだが......むろん今はまだ、それは判らない。

 さて、そんな具合に調合して持っていくと、

「これはいいなァ!」

 いいに決まっている。そんな常識的な仕分けさえ、当時の田舎工場ではされていなかったのであろう。

 明治紡のほか、当時の神戸の鈴木商店が門司の大里へ進出して、幾つかの工場など経営していたが、そこへも佐三は納品することになった。

 けれども、そのくらいの受注では、追っつかなかった。資金はどんどん食い込んで、開業満三年を経た大正三年の夏の初めごろには、「もう店仕舞いしたい」と悲鳴をあげて、スポンサーの日田に相談する始末であった。

 そのころ日田は子供連れで、門司に遊びに来ていた。佐三の近くに何日か何週間かいて、佐三の働きぶりを目を細くして眺めていたいからであった。といってむろん、佐三の仕事に口出しするわけではない。

 思うに日田は、何かの事情があって表に顔を出したくなかったのであろうか。それともひどく退隠的な性質で、自分では表の仕事をしたがらなかったのかも知れない。

 にもかかわらず、金はある。その金を出して、誰かを自分の代わりに働かせて、それを傍から、まるで自分が働いているかのように、眺めていたかったのかも知れない。ともかく、佐三もそれ以上の突っ込んだ事情は書き残していないし、いまとなっては『真相不明』というのほかない。

「そんなことで、どうするのですか!」

 佐三の相談を受けて、日田は機嫌を悪くしたという。

「一度やり始めたことです。とことんやってみなはれ。資金の追加が要るのなら、まだ神戸の家が残ってます。あれを売れば、そのくらいの役には立つ。やり遂げなはれ!」

 佐三は、

「はい――」

 と答えるしかなかった。

(俺にはもう、退路はない!)

 佐三の性根が本当に据わったのは、或いはこの時だったかも知れない。

 もはや、退路ではない。行き倒れになってしまうにしても、自分にはいまの道を前向きに進むのほか、道はないのだと佐三は覚悟した。

 

 大正二年の夏、出光は満州に旅行をした。

 新市場開拓のための検分を兼ねてはいたが、主として見聞を広めるためであった。商売の上では、さしたる収穫はなかった。

 翌三年の八月に、今度は秋田から東京へと旅をした。

 日本石油の秋田の黒川油田が、この年の五月下旬から、噴きに噴いていたのである。そのために、国産の出油総量が輸入量とほぼフィフティ・フィフティになり、日本の石油史上、最高の出油量を記録するに至ったのである。

 出光の旅行は、その現場を視察するためであった。そしてその帰路の九月上旬に、東京に寄った。そしてその帰路の九月上旬に、東京に寄った。

 有楽町の日本石油本社に顔を出し、社長の内藤久寛にも会って、帰りは内藤の車で、東京駅まで送ってもらった。

「ほほう、いい車だねえ。社長さんの自家用車ですか?」

 出光は、運転手にたずねた。

「さようでございます。イタリア製のフィアットと申します」

 運転手は答えた。運転席が独立して、客席の前に付いている型の車であった。

「社長さんは朝夕、この車でご通勤ですか?」

「さようでございます。社長は靖国神社の北の麓の方にお住まいですので、毎朝、宮城のお濠の北から東を通って、有楽町へご通勤です」

 いいながら運転手は、車首を東京駅の方に向けて走り出した。

「自家用車で通勤の社長さん方は、大勢いらっしゃるの?」

「はい、いえ......。大勢と申しますか何と申しますか......確かにこのごろ、急に殖えては参りましたが......」

 そういって運転手は、ちょっと首をひねったが、

「耳学問で、聞きかじりですから、間違っていたらごめん下さい。日本の自動車は、明治三十一年に輸入された一台が初めてだそうでして、それから最近まで十年ほどは殆ど殖えませんでした。明治四十一年の登録台数は九台しかなかったそうでして......ところが近年になって急に殖えだしまして、四十三年には百二十一台になり、四十四年には二百三十五台に、四十五年―大正元年には五百十二台に、二年には八百九十二台にと、大へんな激増が続いています。いまではもう、千台を越えるんじゃないですか」

「ふーん。詳しいんだね。君」

「いや、先日社長さんとごいっしょに、偉い役人さんをお乗せしましてねえ。お話してるのを聞いといて、お降りになるとすぐノートを出して控えたんですよ。何しろ自動車は、こちらの商売ものですから......」

 運転手は笑った。出光も笑ったが、突然真面目な顔になって、

「あッ、そうだ。これだッ!」

 と、小さく叫んだ。

「何でございますか?」

「いや、何でもないです」

答えたけれど出光は、それから急に黙り込んで、東京駅まで考えに耽っているようであった。

 

 機械油から燃料油へ

 

 東京駅から汽車に乗って、途中大阪で下車して日石の支店と神戸の酒井商会に顔を出し、出光が下関に帰り着いたのは、二、三日後の或る朝であった。

 まだ、海底トンネルは出来ていないから、下関駅は現在よりはずっと北東の、下関の町のまん中にあった。そこからすぐ連絡船に乗って、門司までは三十分足らずであった。

 帰りつくとすぐ井上から留守中の報告を聞き、いったん引っ込んでひげを剃ると、出光は、服装を改めて出て来た。

「行ってくる」

 どこへですか、とは聞かず、「行ってらっしゃいませ」と一同で送り出した。

 出光はその午後中、門司と下関で、海事や港湾関係の役所や、漁業会社などを訪問して、何か調べごとをして過ごした。

 夕食が終わってから、出光は店員を集めた。

 開店のころとは、顔ぶれも変わっていた。井上の次席には、後にタマの婿となる真武周三がいた。福岡商業出身で記帳役の小田達夫とか、赤間小学校出の上部数夫、田中徳太郎たちが顔を揃えた。

「店の方針を、転換する。きょうはそれについて話す」

 と、佐三は口を開いた。

「僕は、東京で、日石社長の自動車で東京駅へ送ってもらった。それで思いついたんだが、照明用の、つまりランプの油や、潤滑油の油から、動力用の油に、狙いを転換したい

「自動車の......ガソリンを扱うんですか?」

 真武がたずねた。

「いや、そうではない。それはいずれは自動車にまで行き着くじゃろうが、日本ではまだそこまでは行かん。同じ内燃機関だが、漁船や運搬船用のエンジンだよ。そのエンジンが焚く、動力用の油を扱ってみたい」

「しかし、その油なら灯油かガソリンじゃないですか?それなら、うちの扱い品じゃないですよ」

『内』は、機械油の特約店であった。

「いや、それには僕に知恵がある。暫く待ってくれ」

 それから出光は、きょう一日がかりで調べ上げてきた情報を話した。―漁船や輸送船に『内燃機関』を積むことは、明治三十八年の静岡県の水産試験船『富士丸』を皮切りに、明治末年ごろには急速に進んでいた。

 それには自動車のエンジンが複雑で、その製作には完備した工場と円熟した技術が必要で、まだ日本の技術水準では「無理だ」といわれるのに対して、船舶用のエンジンは―特にこの頃はやっている『焼玉エンジン』というのは至極簡単で、多少の技術こそ要ったが、町工場に毛の生えた程度の工場ででも、簡単に作れる。

 だから、漁船や輸送船に『焼玉エンジン』を据付けて機械化することは、全国的に、急速に普及しているのだ。この門司港でだって、今やそんな機械化船は少しも珍しくはない。

「あれだ、あれで行くのだ!」

 出光佐三は、その機械化船の『燃料油』に着目したのだった。

 

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このページは、宝徳 健が2011年2月25日 21:18に書いたブログ記事です。

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