このシリーズは右のカテゴリー「出光理念を検証」に格納されています。
毎朝、出光へのホ・ポノポノをやってます。「いったい、過去の自分の潜在記憶の中の、どの情報に原因があって、出光興産から理念経営が消えてしまったのだろうか。ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」と。
改めて読み返すと、この語録もいいですね。士魂商才第三十六号 平成二十二年九月号の記事です。第ニ章の続きです。
【ホームページ情報】
弊社のHPは、このブログの右下の「ウェブページ」にあります。「ペルシャ湾上の日章丸」に続きを掲載しました。
二章 苦闘
金は儲けなかったが、事業は理想的に伸びた。
給油船をつくる
以下はかなり後日の話だが、くり上げて記すと―或る日、弟の弘が、一枚の図面を持って佐三のところへ来た。
「兄さん、海上給油は、油さえ給油すればいいんでしょう?缶なんか要らないんでしょう?」
「そうだ、そうだ」
「じゃあ、船にこんな具合に給油塔を立てて、定量を漁船に流し込むことにしてはどうでしょうか?」
それは、給油船の図であった。弘は細工ごとが好きである。東筑中学(旧制)を出て、友人とブラジルに移民していたが、兄の仕事を助けたくて帰って来たものであった。定規とコンパスさえ持たせておけば、一日中機嫌がいいといわれていた。
「なるほど―」
佐三は、感心した。給油船に、一石(百八十リットル)ほどの石油のはいる塔を立てる。だいたいドラム缶一本分である。塔からは筒っぽの手が出ていて、それを通って石油が流れ出るわけだが、途中がガラス管になっていて、メモリがしてあるので、いくら流れ出たかは瞭然である。
「なるほど、これはいい。いくら船が揺れても平気だなあ。さっそく作ってみろ」
佐三の指令で、弘は下関の中村造船所と松岡ブリキ店に注文して、給油船をつくり上げた。どんな波にも嵐にも平気で、頗る好調であった。
ところが、門司市役所からクレームがついた。度量衡法違反だから、使用を禁じるというのであった。弘は憤慨したが、うまく話をつけて市の係役人をその船に誘い出した。
「これで、一つ計ってみて下さい」
水を入れた桶に枡を添えてさし出した。その日は風があって、海は波立ち、船は揺れていた。どんなにしてみても、枡では水は計れなかった。
「今度は、こちらで」
作りつけの給油塔を使わせると、何枡何合汲み取ろうと、注文通り自由自在であった。
「なるほど、これは理屈だ」
係役人はぶつぶついっていたが、帰るとそれからは、使えとも使うなとも、いってこなくなった。
つまり、黙認であった。
こんなにして、佐三は海を制した。
北九州一円の機械船はすべて、佐三の縄張り内のものになってしまった。
石油不足をのりきる
折から世界大戦が、すでに始まっていた。
「油は買い溜めしといてくださいよ。輸入がなくなりますから」
佐三は見通して、山神組やその他のお得意の漁業会社に、灯油、軽油を買い溜めさせた。自分も日石の品に限らず、当時は日石と並んで二大国産石油会社であった宝田の品物でも、その他の中小会社のものでも、また外国品をブローカーが持ってくるのでも、選り好みせずに買い漁った。
佐三の見通しは当たった。当時は日本の国産石油の最大出油の時代で、大正四年の出油量四七一,四三六キロリットルというのがそれであったが、それ以上の増産は戦争によって試掘用の大口径パイプの輸入が止まって、出来なかった。また、外国油の輸入も、急激に先細りであった。すなわち、油の払底に、工業家はみな泣きの涙だったのである。
お陰で、戦局が進むにつれて、漁業では第一位を誇り、山神組の競争相手で出光からの石油は入れていない林兼までが、石油の払底で停船することがあったのに、山神組にはそんな非常事態は起こらなかった。
白石は、心から感謝した。そのうえ月末になって請求書が届くと、それが普通の値段であるのに二度びっくりした。
「こんなに安くていいのかね。うちは、間に合わしてさえくれれば、多少の高いのは覚悟しているのだよ」
「いいえ、そんな非良心的なことはしませんよ。需要家に対して供給の万全を期するのも、商人の責任の一つですからね」
佐三は頑として、内池教授の需要供給論を守るのであった。
けれども、よいことと悪いこととは背中合わせである。やや後日の話になるが、白石が不幸にも若死にした。それとは話は別なわけだが、油が手に入らなくて困り抜いた林兼―大洋漁業は、さすが最大手の実力に物をいわせて、自分で石油を扱い始めた。すなわち『石油部』を設けて、自分も石油業者の一人として乗り出して来たのである。話は広がって、山神組も、傍系会社に石油を扱わせ始めた。
自然、出光からは別れていくわけで、佐三は親しかった白石が急逝したことを、いっそう残念に思った。
コメントする