出光興産は、今年100周年です。出光興産の販売店さん(他社でいう特約店店)が数日前東京に招待されたようです。そして、いくつかお土産をもらったみたいです。その中にDVDが。昔よく見た「映画日本人」です。ほしいよ~。ほしいよ~。ほしいよ~。これは絶対にほしいよ~。出光の創業の姿が描かれています。ほしいよ~。
(涙を流しながら)弊社月刊誌 士魂商才第三十七号 平成二十二年十月号の記事です。第三章に入ります。
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弊社のHPは、このブログの右下の「ウェブページ」にあります。「ペルシャ湾上の日章丸」に続きを掲載しました。私はこの本を入社前にいただいて読んで、感激して涙が止まりませんでした。
三章 進出
―出光の歴史は、敵をして味方たらしめる努力と熱意である
出光の過去の歴史は大部分この「敵をして味方たらしむる」の歴史である。
満州においてしかり、北支大使館しかり、南方しかり、しかして終戦後はじめて国際的にこれを実現した。(中略)
われわれは主義に妥協なしとの建前より、主義主張をまげざるため、多くの敵をつくった。ゆえにわれわれは、白紙の第三者をして出光を了解せしめる程度の生ぬるいことではだめである。熱誠、もって当の敵をして、ついに味方たらしめねばならぬ。すなわち堂々たる主張をもって、努力と熱意とをもって相手を溶かさねばならぬ。(『我が六十年間』第一巻より)
*
下関の海上油販売が軌道に乗ったので、出光は一方では、大正三年の初冬から『満州』に進出した。現在の中国の東北三省である。
内地は、働き心地が悪かった。
石油業界も、そうであった。
内地の市場には『テリトリー』の主張が、ついて回った。古い、実績のある店ほど、広い、豊かなテリトリーを持っていて、新参の出光などにはなかった。出光は、公然とは灯油も売れなかった。
苦肉の策として海に進出し、
「海に領域なんてあるか!?ここまでが下関で、ここからが門司、ここからが博多だなんて、そんな線がひいてあるとでもいうのか!」
理屈にならぬ理屈を強弁して、強引に燃料油を売った。もっともそれには、出光がそれまではエンジンには用いられないとされていた『軽油』を用いて成功し、倉庫の隅っこにちぢこまっていた軽油を、日の当たる場所に引き出したという功績があり、そのことへの論功行賞としての黙認でもあったろうけれど。
が、それにしても内地は窮屈で、働き心地が悪かった。
これに比べて日露戦争の結果、やっと権益を得た満州は自由闊達で、つまらぬ『縄張り』などは、なさそうに思われた。
それで大正二年に市場調査をし、三年初冬から、機械油を持って小規模に進出してみたのであった。
それにも多少の『いわく』はあった。
下関の日本石油の倉庫に、青い色をした、非常に綺麗な『車軸油』が眠っていた。
出光は、かねてその車軸油に目をつけていた。満州進出を計画するに当たって、
「あの車軸油を活用してやろう」
と考えたのであった。
世界の超大会社である満鉄を相手に、石油全体で勝負するわけにはいかない。得意の潤滑油で乗り込むべきは当然のことであった。
或る日、倉庫に行って出光は、例の倉庫主任に切り出した。
「あの車軸油を、僕に安く引き渡してくれませんか」
「それは望むところだよ。あの油は売れなくて困っているんだ。買ってくれれば有難いが......しかしこれまでも何回か、捌いてくれと頼んだのに、断られ通しだった。それが今ごろ、どうして急に買う気になったんだい?」
出庫主任がいぶかるのも、無理はなかった。
「それは......僕は満州進出を計画してましてねえ。あれを、満鉄に売り込んでやろうと考えているんです。その代わり......思いきり安くしてもらわないと、話にならないのですが......」
「君は......、馬鹿じゃないのかね」
と、出庫主任はいった。「馬鹿じゃないのか」は、この男の悪い口ぐせのようであった。
「いいかね、高い税金を払って入って来ても、外油の機械油は品質がいいので、日本でも引っ張り凧だぜ。それが満州へは、......大連では関税なしで入るんだ。そこへ日本から、品質の落ちるのを高い運賃をかけて運んで行って、どうして競争になるんだね?馬鹿も休み休みにいって欲しいもんだ」
「だから、思い切り元値を安くしてくれ、といっているでしょう。元値さえ安ければ。僕が競争にならせてお目にかけますよ」
「安くたって......程度があるよ。鯨油が無税で入るのと、競争できるほど安くせよとは、無理な相談だよ」
出庫主任は、手を振った。
「人を馬鹿呼ばわりするけれど、あんたこそ馬鹿じゃないのかね!」
出光は、いった。親会社子会社のけじめのきびしかったこの時代に、親会社の主任を馬鹿ときめつけるのは、よほど勇気の要ることであった。
「なに、俺を馬鹿だと!」
出庫主任は、果たして気色ばんだ。
「ああ、そうだ。君こそ馬鹿だよ。多少は安くっても、売って片付けるのと、いつまでも倉庫に眠らせて置いて、場ふさぎさせるのとどちらが賢明かね。考えるまでもなく、それが判らんようでは馬鹿だよ!」
その日は喧嘩別れになったが、出光はあきらめなかった。くり返し交渉すると、その男も次第に自分の非が判って来たようで、結局は出光の言い値で商談は成立した。
その青い車軸油をベースに、出光は工夫して、いろんな潤滑油をつくった。その見本の油を持って、出光は満鉄に乗り込んだのであった。
満鉄にて孤軍奮闘
満鉄にも、神戸高商を出た学友はいたので、その紹介を得て用度課へ顔を出した。
けれども、内地に『縄張り』があったように、満州にもあって、思ったように自由濶達ではなかった。それに、出光自身が駆け出しの『ぺえぺえ実業家』であるのと同じく、友人もまた、満鉄の駆け出し社員であった。その顔は、何ほどの役にも立たなかった。
「石油はスタンダードが入っているから、事足りているよ。潤滑油だってヴァキュームその他が入っているから......」
持って行った見本油なんか、ろくに見てもらえなかった。
出光は一計を案じて、学友に頼んで車軸の技術者に紹介してもらった。
自宅訪問してその技術者と親しくなり、そこから今度は、撫順の車庫主任に紹介してもらった。
訪ねて行くと、何しろ日本人の訪問客なんて全く珍しいので、歓待してくれた。持って行った油も見てくれる。
「何とか、これを、用度課に持ち込んで分析試験していただきたいんですがね」
「よし、俺が頼んでやろう」
快く引き受けて、用度課へテストに持ち込んでくれた。用度課にしても、現場の責任者から持ち込んで来たものを無下には断わり難い。試験に回してくれた。
「君のこの油はね、満鉄の基準規格に照らし合わせると、比重が重く、引火点が低い。これでは満鉄としては、『ノー』だね」
「でも、満鉄の基準といったって、それは外油を標準に定めた規格でしょう?外油には外油の特長があり、日本の油にも日本の特長があるわけで、一概に外油標準の満鉄規格外だからといって、駄目だと決めつけてもらっては、困ります。果たして実用には適するのか、適さないのか。一つ実地試験をしてみてくれませんか。それで駄目なら諦めますから......」
「仕方のない奴だなァ」
まず沙河口の工場で機械テストなどをやり、その結果がよかったので、撫順と奉天(瀋陽)の間を往復運転し、実地テストすることになった。
そのテスト主任は、例の出光を方々に紹介してくれた撫順の車庫主任であった。主任は出光にウィンクしておいて、試験列車に乗り込んでいった。
その主任とは、出光は幾度も語り合っていた。―尊い何万の血を流して手に入れた満州だったのに、そこに入っている油は、外油ばかりである。日本の石油会社などは、寄り付きも出来ていない。口惜しくないのか?いや、俺も口惜しい。俺に何とかなることなら、どんなにしてでも日本の石油会社を入れてやりたい。―主任は、そういっていた。
所定の時間が経って、雪の曠野を往復して、試験列車は帰って来た。
「いや、これはいい。上等ですよ。外油に比べて、少しも劣りませんよ!」
主任が弾んだ声で報告するのを、出光は微笑して聞いていた。
(俺の熱意が、こうして答えられたのだ!)
出光の目からは、危うく涙がこぼれそうであった。
「安すぎる」とクレーム
出光は、満鉄用度課からの最初の注文を得た。それはいわば、『雀の涙』ほどの僅かな量であったけれど。
「スタンダードは、一石(一八〇リットル)三十六円で納めているんだが......君の方は幾らにしてほしい?」
用度課から聞かれて、出光は、
「はい。十八円で結構です。」
と答えた。
「なに、十八円?それで本当にいいのかね?」
用度課としては、本音は三十円とか、二十八円とかいって欲しかったのである。十八円といわれては、あまりに安すぎる。これまでの納入価格とは、あまりに差があり過ぎる。ということは、これまであまりにも『高価買い』していたと思われかねないからであった。
「はい、本当に十八円で結構です。それで十分、利益があります。私の方は、決して出血サービスではありませんから」
この納入価格は、大げさにいうと全満鉄社内にセンセーションを巻き起こした。それには賛否二つの意見があった。
「出光という男は、偉い奴だ。半額と打ち出すとはなあ。これは将来、必ず使いものになる男だぞ」
そういった肯定派がある一面で、
「いや、あいつは商人として失格だ。そんなことをすれば、用度課をしてこれまで高価買いしてたと非難を受けさせる。それでは用度課が困るだろうとの、配慮がされねばならん。それを欠くとは、商人失格だ」
そういった否定派もあった。
が、ともかく、出光佐三という石油商人がいると、満鉄社内に強い印象を残したことは確かであった。
私は真剣勝負だ。しくじりをやれば命をとられ、店はつぶれる。
私がよくいってきかせたことがある。君らの仕事と私の仕事を、剣道の試合にたとえてみれば、若い店員は袋竹刀の勝負だ。いくら叩かれたって、ああ叩かれた、くらいで済む。その次の連中は木剣の試合くらいで、支店長あたりでも、木剣で叩かれれば、血は出るけれども、命までもとられるようなことはない。
しかし私は真剣勝負だ。しくじりをやれば命をとられ、店はつぶれる。それだからいつも真剣を抜いてやっておる私と、仕事の立場上真剣の抜けない支店長、支配人あたりが会得するものとの間に、どうしても越すことのできない壁がある。これはいかんともいたしかたがない。私以外には味わえないんだから、それはさよう心得ていよといって、よく教育したものだ。(昭和三十八年八月、『人の世界と物の世界』より)
*
この間、内地にも書くべきことがないわけではないが、書き始めたついでに、いま暫く満州のことに筆を費やしたい。
こうして満鉄への出入りに成功した出光は、大正五年の四月に大連に支店を設けた。
長兄の雄平を、初代支店長とした。
雄平は豪酒家であり、豪気な男だったという。十年余り以前に、父の藤六が藍玉商売で行き詰っていたころに、雄平は率先して化学染料を扱い始めた。それが父の気に入らず、といって雄平にも妥協の気持ちはなくて、それまでの父との共同経営を捨てて、家を出た。日露戦争の前のころで、雄平は乾燥野菜をつくって軍に納めたりしていた。
そのうち召集となって、小倉の北方の第十二師団に入営した。輜重輸卒として、奉天から吉林までの間を、馬で爆薬や食料を運ぶ仕事の指揮をした。
一年ほどで召集解除となって復員したが、こうして雄平は、出光商会に入る以前から、満州にはかなりの馴染みがあったわけである。
赴任に際して佐三は、
「兄貴、あんまり飲みっすぎしゃったら、いかんばい」
という言葉を、笑いのうちに餞けとしたというが、雄平も一言、
「うん」
とだけ答えて、笑いのうちにその言葉を呑み込んでいる。
が、着任すると、盛大に飲んだ。雄平の飲みっぷりというのは、一人でちびちびやるのでなく、部下や仲間を大勢引きつれて、豪勢に飲むのである。
満州のような索漠とした植民地では、酒なしでは一日も過ごせぬ。雄平が飲んだ仲間というのは、多分は満鉄や軍の連中だったのだろう。飲むことが、すなわち『外交』であった。雄平は豪快に任務を果たしたわけで、飲んだに正比例して、売上げを伸ばした。
支店は『監部通り』という電車通りにあり、満鉄に行くのに便利だったばかりでなく、郵便局や朝鮮銀行の支店にも近かった。
二階建てで、階下が洋間の事務室のほかに、六畳と三畳の畳敷きの二部屋があった。二階は二部屋で、佐三も満州に来るたびにここに泊まっていたが、よい方の部屋を兄の支店長住居とし、自分は粗末な方の部屋にいた。
社員はほかに小川と高野という日本人二人がおり、ほかに日本語のうまい中国人も一人いた。門司の太っちょ仲仕頭の和田勘市も来ていた。そのほか賄いの女中が一人いた。
業務は石油については、機械油のみならず各種品目の売り込みに努力したほか、セメント、火山灰、各種機械工具なども扱った。満鉄向けの納入だけでなく、一般市販も行なって、漸次南満一帯に商圏を広げて行った。
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