魚は頭から腐る④

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 なんか、誰が誰の子かわからなくなったというご意見が・・・。今後系譜図つくってみますね。


 「得子(なりこ:藤原得子 後の美福門院)は守仁親王をかわいがっておるからのう」

 鳥羽上皇は、自分と璋子(たまこ:待賢門院(たいけんもんいん))との間に出来た子ができた。自分の皇后でありながら、白河法皇と璋子は通じ、そして崇徳天皇を生んだ。しかし、自分は、白河法皇が亡くなって、男ひでりになっていた璋子と通じてしまい、子を作ったのだ。その子の子、つまり孫が、守仁親王であった。

 最初は寵愛している得子に悪いと思っていたが、なんと、得子がその守仁親王をことのほかかわいがったのであった。鳥羽上皇は、この守仁親王を玉座につけたいと考えた。そのために、自分と璋子のこ、つまり、守仁親王の親である後白河天皇を即位させたのであった。

「まあ、すぐに退位させればよいわい」

 鳥羽上皇は考えた。そして、守仁親王が即位した。二条天皇である。

「これで一安心じゃわい」鳥羽上皇は安堵した。

*****

「悪左府じゃ、なるべく目をあわさないようにしないと、どんな因縁をつけられるかわからんぞい」

 宮中の人間は、押しなべ、「悪左府」と呼ばれている。左大臣藤原頼長をきらっておった。

「兄の忠通(ただみち)さまは、あんなに温厚篤実なお人柄なのにのう」

 これも、宮中の人間の口癖のようになっていた。

 頼長と忠通は、関白太政大臣 藤原忠実(ただざね)の二人の息子であった。

「頼長、頼長、もそっとこちらへこいや」

 忠実は、なぜか、この宮中で評判が悪い悪左府 頼長をかわいがっておった。それだけではんく、政治の実験さえも、温厚篤実な兄ではなく、頼長に握らせようとしていた。 (つづく)


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このページは、宝徳 健が2011年3月 3日 14:21に書いたブログ記事です。

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