出光興産㈱の大きな人事異動がありましたね~。みんながんばってね。
では、続きを掲載します。
弊社月刊誌 士魂商才第三十八号 平成二十二年十一月・十二月合併号の記事です。第三章のつづきです。
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弊社のホームページは右下の「ウェブページ」にあります。「ペルシャ湾上の日章丸」の続きを掲載します。
三章 進出
―出光の歴史は、敵をして味方たらしめる努力と熱意である
酷寒に耐える潤滑油を
大正五年の秋、出光は大連に来ていて、満鉄に一つの忠告をした。
それは、満鉄で使っている外油の潤滑油は一品目で、しかも温帯や熱帯で使っているのと同じものである。満州の酷寒に、果たしてそれでよいのか、という献言であった。
その憂いは「ある」と、満鉄でも考えていた。それで、出光が適当と思う油を、ともかく持って来てみろ、ということになった。
出光は、さっそく調合して、届けた。
テストしてみると、成績がよかったので、満鉄では使う気になった。
「試験的に使ってみるから、見本として、とりあえず三百箱納めてくれないか」
といって来たので、出光は張り切って、三百箱分を調合して、納入した。
ところがそれっきり、ナシのツブテであった。使ったとも使わないとも、「見積書を入れろ」ともいって来ない。声がないままに、二年が経った。
大正七年の秋に満州に来た出光は、怒って満鉄に怒鳴り込んだ。
「見本を出させただけで、二年も音沙汰がないとは何事だ。見積書を出させて、高いから買わぬというのなら、話は判る。それなら、我々は引き下がる。ところが見積書を出せともいわない。こんな満鉄の態度は不愉快千万だ!」
それを、用度課の机に行儀悪く腰掛けて、腕を振り上げて出光は大声で怒鳴っていた。
ところが、そこの窓の隣が、用度課長の机であった。もろに聞こえたから、課長は怒った。
「出光を呼べ!」
入って行くと、
「お前は、生意気だぞ。暴言を取り消せ!」
怒鳴りつけた。出光は平気で、
「暴言も何も......それであんたは何事ですか。我々に苦心して作らせて見本を取っておいて、その一方で、外国会社に二年分もの注文をするとは......信義に反しませんか!?しかもあんな腐ったようなボロ油を二年も使っていたら、車が焼けてしまって大変ですよ!」
出光は、出光が見本油三百箱を納めた時点で、用度課長が、ヴァキュームの油を二年分ほども注文したのを、知っていたのであった。
「なに、車が焼ける?焼けなかったらどうするか!?」
「いや、きっと焼けます」
「焼けなかったら?」
「どんな罰でも受けますよ」
「きっとだな!よし、それでは焼けなかったら、お前の満鉄出入りを差し止めるが、それでもいいか?」
「いいですとも。差し止めてくださいよ」
騎虎の勢いであった。出光は勢いよく断言してしまった。
だがそれは、大変なことであった。出入りを始めて二、三年後には、出光は急成長して、満鉄納入業者のうちで、スタンダード、三井に次いで第三位だったといわれる。それはそれで驚くべきことだが......その成果を棒に振っても構わぬとは、これも驚くべき『意地』の張りようであった。
心配した学友が、謝ってこい、その発言は取り消してこいと、なだめすかしたが、出光は取り合おうともしなかった。
認められたテスト油
それから三、四ヶ月経って、大正七年の十二月の末のことであった。
出光が門司の本店で、正月準備のことなどしていると、電報が来た。差出人は満鉄用度課で、電文は、
「厳寒の候を迎えて、車輛燃焼事故が続出して困っている」
そして、
「ミホンユ(見本油)ジサン、オイデコウ」
とあった。「来い」ではなく、「オイデコウ」とあるところに、困窮している満鉄の姿が見られた。
「果たして―」
と考えて、出光の電報を持つ手は、さすがに震えた。どんな因縁なりがあったのか、ヴァキュームの、出光の判断によると『廃油同然』の潤滑油を二年分も買い入れて、それを使い始めたと覚しきころから、満鉄の車輛燃焼事故は起こり始めているのである。情実買いの『罰』というべきであった。
が、そのことへの怨みは、私怨に属する。満鉄にはいま、ロシアに起こった、世界大戦直後の革命に対応するために、日本がしている『シベリア出兵』の輸送協力の責務があり、また最出荷期にある満州大豆の輸送の責任もあった。
列車燃焼事故は、前年の冬から多発しており、大正七年から八年にかけてのこの冬は、最多発が予想されていた。(現実に、大正八年の一月には、一ヵ月間の燃焼事故が一万二百七十二件の多数を数える。)
出光は、「満鉄を救おう」と決意した。日石本社と連絡を取って、国産油を使って不凍潤滑油を調製した。それを持って、下関支店の笹岡店長、秋田製油所の後藤泰次技師と同道して、八年一月末に渡満した。
満鉄では、一行を待ちかねてすぐに会議を開いた。事故を起こした列車では、寒さのために、車輛の下のボックスに納めてある、油をひたしたウールの油分が凝結して、これが飛び出してしまい、油気がなくなって発火しているのであった。
「ウールが飛び出さんようにしなければならん。そのためには、ボックス・カバーをもっときつく締めて......」
ヴァキュームやスタンダードの技師たちは、そうした処置を力説した。これに対して、出光は反論した。
「そんなことでは駄目だ。問題は、車軸油自身にある。車軸油そのものを、改良しなければならない」
そこで実験することになった。ヴァキュームの油と、スタンダードの油と、出光が納入している普通の冬候油と、同じく出光が今度持って来た新・冬候油の四つの油を、それぞれ試験コップに入れて、深夜気温が零下二〇度に下がるのを待って、長春の大和ホテルの庭に出して、一定時間を経過させようというものであった。
出光は、毛皮に着ぶくれて参加した。結果は、二つの外油は粘度を失って固体化しようとしたが、出光の二つは、流動性を失わなかった。
「こんなことでは駄目だ。実地に列車を走らせてみねば、なんともいえない」
なおも外油側が言い張るので、翌日は実際に列車を走らせて、試験することになった。酷寒の夜半、長春から南西へ六十キロの公主嶺との間の往復運転であった。各社の油が、それぞれ所定の車軸の下のボックスに注がれた。
出発は、午前三時であった。
零下二〇度を下回る酷寒であった。
試験列車が帰ってきたのは、夜が明け放れようとする時刻であった。出光たち一行は、満鉄の運転課長の貝瀬謹吾や、設計課長の武村清などと共に、別室で仮眠して待っていたが、「帰った」というのでいっしょに出て行った。外油の連中も来ていた。
結果は、次のようであった。
ヴァキュームのは、ボックスの中のウールが、蓋を押しあけて、みんな飛び出してしまたのである。
スタンダードのは、ウールが半分はみ出して、まさにこぼれ落ちようとする寸前であった。
出光の普通冬候油のは、ボックスの中でウールが少し動いていた。新しい見本油のは、ボックスの中にきちんと納まって、少しも動いていなかった。
これで、結着がついたはずだが、まだ『結論』とはいかなかった。「出光の新しい油は、実用例がないじゃないか」という、外油側の異議であった。
ところがそれは、意外なところからほぐれた。
牧野工兵少佐というのが、東清鉄道の管理をしていた。ところがここでは、車輛の焼損事故などは一件も起こっていなかった。
不思議なので調べてみると、「満鉄からもらった潤滑油を使っている」という。いっそう不思議なので、もっとたずねてみると、長春の車庫からもらったもので、それはかつて出光が納めた三百箱の見本油そのものであった。殆ど使われずに長春の車庫に積まれていて、牧野少佐はその何がしかをもらったものと判った。
「なあんだ。もとはといえば、出光の冬候油じゃないか―」
それで、『使用の実例』というのも十分なわけであった。出光の新しい潤滑油はこうして満鉄に採用され、『二号冬候車軸油』と称されて、殆ど独占的に使用された。後に昭和十五年になって、『満二号潤滑油』と改称される。
ついでながら述べると、出光が調製した新潤滑油のベース・オイルは、秋田県の道川、豊川両油田の産油で、共にナフテン系の油であった。石油にはナフテン系とパラフィン系の二種類があり、一般的にいって、ナフテン系の油は凍り難く、これに対してアメリカ産油の殆どであるパラフィン系は、潤滑油として良質ではあるが、凍り易い。
出光が、こんな理屈を知っていたのかどうかは不明だが、何にしても日本産のナフテン系の油さえ使えば、殆ど不凍油に成功したわけで、幸運だったともいえるだろう。
こうして『二号冬候車軸油』が採用されたのを契機に、出光の満鉄との結び付きは、いっそう強固さを増した。
朝鮮進出を阻止される
念願の満州進出に成功した出光は、続いて華北、朝鮮、台湾への進出を試みた。
華北では、満州に入ってから一、二年後に、青島、天津に進出した。満鉄工作と同じく、山東鉄道に中候油を納めたのが取っ付きで、石油はもとより日本の諸雑貨を入れた。
朝鮮は、日本の領土となってからも、石油市場は長くアメリカ、イギリスに独占されていた。主としてスタンダード社が灯油を扱い、ライジングサン社がガソリンを扱って、両社は協力して日本業者を寄せ付けなかった。
朝鮮の石油は、高かった。日韓合併のときに、石油などの関税は十年間据置とする、つまり、無税または無税同様の状態を続けるとの宣言があり、期限である大正九年になると、朝鮮の民度はなお低いので、なお当分無税(または無税同然)を継続するとの宣言があった。
無税なのに、なぜ高いのかというと、無税だから本来は原価は安いのだが、その安い石油をあやつって、英米業者が暴利を得ていたのである。地方地方で朝鮮の金持階級を糾合して、石油組合を作らせ、これに独占して石油を扱わせる。その組合には高い『戻し』を与えて、統制を崩させぬようにしていた。だから価格操作は組合の―つまり背後の米英資本の思うがままであった。
日本の石油商は、その仲間へは入れないので、距離の近い関門地方の業者などが、朝鮮の船具店とか雑貨商とかと僅かな取引をするばかりであった。
こんな状態に憤慨した出光は、朝鮮進出を図るとともに、まず朝鮮鉄道局に食い込んで、その使用潤滑油を満鉄納入の中候、冬候車軸油と同じものに改めさせた。続いて北鮮の製材所、南鮮の精米所、および各地の機械船を重点に、精力的に軽油、灯油を販売した。そして、日本の業者が、外油と同じ土俵に立って勝負出来るようにと、関税法の改正に尽力した。つまり、外油に日本と同じ関税を課するのである。それでは一見、石油の値段が高くなるように思われるけど、事実がそうでないのは、すでに説いた通りである。石油界は日本内地と同じ『競争の舞台』となり、過度に高かった朝鮮の石油は、内地と同じ水準まで値下がりするのである。
それにはひどく『時間』がかかった。議案をかけようとした議会が解散になったりして遅れたが、ついに昭和四年に、特別関税制度を撤廃させるに至る。
こうして出光は、日本の『石油』は朝鮮に進出できる道を開き、朝鮮のためにも、また日本の石油業界のためにも大いに貢献したが、その褒章として自分の得たものは、マイナスに近い『ゼロ』だったといえよう。
関税法が改正され、日本の業者が英米業者と正当に競争出来るようになって、出光が強力に朝鮮に進出し始めると、翌五年、親会社である日本石油から「待った」がかかった。
「俺の方が直接京域その他に支店を出す。お前の方は、引っ込め!」
そういって、朝鮮鉄道局へ納入の車軸油を例外として認められたほかは、全鮮十三道にわたって殆ど網羅していた販売網が取り上げられ、わずか三道を残すのみという哀れな状態に追いつめられた。
台湾へは、大正十一年に進出した。朝鮮のような面倒なことはなく、台北に支店を開設して、基隆港の漁船なのに燃料油を売った。
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