このシリーズは右のカテゴリー「短編小説」に格納されています。
前回の続きです。
「殿、あれが伊吹山でございます」
「ほう、あれがのう。日本武尊が、だましうちにあったところよのう」
そう言いながら、源義朝(みなもとのよしとも)の頭に、何か、不安がこみ上げてきた。
「いったい、この感覚はなんだ」
「殿、殿、大丈夫でございますか?」
「あっ、ああ、大丈夫だ」
家臣の声の主は長田忠致である。義朝が最も信頼を寄せる家臣の一人である。義朝は、尾張にある長田忠致の家で、ひとまず身を寄せ、今後のことを考える腹づもりであった」
「もう少しで尾張の国でございます。母に何かうまいものでも作らせますので、ゆっくりとなされてくだされ。風呂などにもゆっくりとお入りくだされ」
「忠致、礼を言うぞ」
「なにをおっしゃいます。めっそうもない。家臣として当然のつとめでござます」
尾張の国についた。そこには見渡す限りの平野が広がっていた。京の都では見ることができない美しい光景である。長田の家もそう豪華ではない。まさに質実剛健。武家の家造りである。
「この田が、国を支えておるのじゃのう。そして田を支えておるのが農民じゃ。なのに、貴族ときたら都で勢力争いばかりじゃ。その勢力争いも、もとをただせば白河の帝の、女の問題じゃ。それがわかっていて、わしは戦に破れ、こうやって落ち延びている。なんとも・・・」
「殿、風呂にお入りくだされ。」
「ああ、すまない。そうするか」
「ふ~、落ち着いたわい。風呂に入るなど、何週間ぶりかのう」
その時、義朝は、異様な雰囲気を感じ取った。修羅場を何度も潜り抜けた男だけが持つことが出来る直感というものである。
「忠致、はようやらんか」
忠致の父がせかした。そう、長田父子は、平清盛からの褒章に目がくらんで、義朝暗殺を引き受けていたのであった。裏切りである。
「そうか、長田父子はうらぎりおったか。鎌田はおるか。鎌田政清はおるか!」
義朝の乳母の息子である鎌田政清が飛び出してきた。乳母の息子とは、兄弟以上に仲の良いものである。
「殿、何事でございますか」
「長田父子が裏切りおったわい。どうやらわしの命運もここまでじゃ」
「殿、逃げましょう」
「もう遅い。政清、わしを刺してくれ。あのような裏切り者に殺されるのは我慢ならん」
政清は義朝の覚悟を悟った。幼い頃から共に過ごしたものにしかわからない阿吽の呼吸であった。
「殿、お供仕ります」
政清は、義朝を刺し、そして自分も果てた。
薄れ行く意識の中で、義朝は、保元の乱で崇徳上皇側に勝利してからのことを走馬灯のように思い出していた。「ああ、打つ手を間違えた。ざんねんじゃ」
義朝は果てた。つづく。
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