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源義朝(みなもとのよしとも)、尾張で死んでしまいましたね。死ぬ間際に義朝は、これまでのことを思い出します。
「わしと平清盛は鳥羽上皇と後白河天皇側についた。そして、わが父 為義(ためよし)と弟 為朝(ためとも)が敵側の崇徳上皇側についいた・・・」
義朝の弟 源為朝とは、いわずと知れた、鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)である。弓の名人で現代でも有名な人物である。少年の頃、流された九州で暴れまわり、地元の豪族たちと数知れぬ戦闘を行って平らげてしまったほどの猛将である。その様子は、南総里見八犬伝の著者である滝沢馬琴の「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」に描かれている。
為朝は、崇徳上皇に「ただちに後白河帝に夜襲をかけましょう」と申出た。
為朝は続ける。
「私の敵は兄の義朝だけです。これは一矢で仕留めます。清盛など私の鎧に触れただけで吹っ飛びます」
すると藤原頼長が「夜襲など私闘でやることだ。援軍を待って堂々と戦おう」などといってこれを退けた。まるで、今の日本の間違ったシビリアンコントロールのようだ。
為朝は、
「兄 義朝の方が夜襲をしてくるだろう」と頼長の戦略をあざ笑った。
古来、文官が作戦に当たって口を出し、破れた戦は枚挙に暇がない。
為朝の予言通り、後白河帝側では、義朝が夜襲を提案し、忠通は「戦のことは武士に従おう」とこれを受け入れた。そして、保元の乱は、後白河帝側の勝利となった。
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今わの際にいる義朝の脳裏に走馬灯のように蘇ったのはそればかりではなかった。
讃岐に流されて命を落した、崇徳上皇の呪いは、その後も続いた。
都では後白河上皇、二条天皇を中心にいくつかのグループに分かれて、再び争いが起きるのである。
保元の乱にづつく、平治の乱である・・・。貴族政治の終焉が確実に音を立てて忍び寄ってきていた。 つづく。
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